運に法則ってあるの?ないの?

運がいい人 悪い人

いやー、あちきは運がいいんだよねー。

と、思う人と、

あっしは、運がよくないんだよねー。

と、思う人。

どちらもいるのではないでしょうかー。

ま、そんなの特に考えたこともねーよ。

って人も、いるかと思いますが、

クジなんかを引いたり、

ビンゴ大会なんかに参加すると、

そういうことを、考えたりするものですね。

まー、学んで賢くなろう!とか、

何かを上手くなろう!と考えて、

頑張る人ならたくさんいると思いますが、

運が良くなろう!と、頑張っている人って、

あまりいないのではないでしょうか?

あまりいないというか・・・。

そもそも運って、

努力で何とかなるの?という話ですが、

みなさんは運について、

どんな感じで考えていますか。

運に法則はある?

松下幸之助さんは面接の最後に、

「あなたは運がいいですか?」と

質問していたということですが、

ようするに、松下幸之助さんも

「運はある」と、思っていた、

おひとりじゃない?ということです。

まー、技術や知識って、

特殊で高度なものを除けば、

誰でも長い間やっていれば、

だんだんと身についてくるものでしょうが・・。

まー、拙者はそうでもありませんけど。

(うん、わかるよ)

運って、続けていくうちに、

反射的にできるようになってくる、

技術や知識とは違う感じで、

気が付いたら運がよくなってたさー。

ということは、あまりない感じですよねー。

ですが、もし、運には法則がない。

という結論を前提に話をすると、

地球にこれだけの人がいれば、

俺の人生、ツキっぱなしの人生だったぜ。

という人が、一人や二人いてもいいはずですし、

また逆に、

ずっとロクなことがありません・・・。

という人が、いてもいいわけです。

ロクなことがない人生・・・。

あー、う、不運過ぎてこまっちゃう!

助けてドラえもーん。という感じであり、

(なにがだよ)

テケテテッテテー 悪運ダイヤー!

という感じですが、

(己の不運を人につけるダイヤだな)

JRとは、特に関係ありません。

(JRは運行ダイヤだろ)

運のよい人間

長い目で見ると、

利口者や金持ちに生まれるより、

運の良い人間に生まれた方がいい。

という、サマセット・モームさんの

言葉があるようです。

テケテテッテテー 悪運ダイヤー!で、

誰かに不運をなすりつけられた拙者は・・・、

えー、というのは嘘で、

最初から、運が悪い拙者は、

運の良い人間に生まれた方がいいよねーと、

心から思うわけですが、

(道具のせいにするなよ)

ま、そう思うということは、

ようするに、拙者も運はあるし、

また、法則もあると思っている一人。

ということです。

ていうか、運には法則があるよー、あるよー。

なーんて言ってないで、

(あるある詐欺か?)

こうするとこうなる。みたいに

誰にでもわかるようにできれば、

いいのでしょうけど・・・。

ま、できるだけやってみます。

よく、己が出したものが返ってくるとか、

同じものを引き寄せるなんて、

チラホラと巷では聞くことがありますが、

ようするに、拙者は、

そういうのが運だと思っています。

つまり、己の普段の思考や行動によって、

己に返ってくるものが変化する。

それが運だということですねー。

こう考えてみると、単純なことじゃん。

と、一瞬思えてしまいますが、

そういう要素に対して、

縁というものが加わってくるので、

いろいろ複雑になり、やっかいです。

まず、縁って、ようするに何?

ということですが、

縁とはつまり、縁でしかないものであり、

非常にフラットなものです。

(なんだそれ)

なにも足さない、なにも引かない。という、

サントリーさんのウイスキーがありますが、

ま、そんな感じです。

(どういうことだよ)

例えば、種を机の上に置いただけでは、

芽は出ませんよねー。

まー、言いかえれば、

種に机の上という、縁がめぐってきた。

ということになるわけです。

なにか特別なことが起きたときに、

「これは縁ね♡」と、

目をキラキラさせていうのが好きな方には、

余計なことかもしれませんが、

(目をキラキラさせてが余計)

実は、縁って、例えば、

朝、起きた瞬間から出会いまくりです。

ていうか、朝起きてというより、

ずーっと、出会いまくってるものが

縁というものです。

どういうことかというと、

例えば、朝起きれば、顔を洗ったり、

朝ご飯を食べたり、着替えたりなどと、

いろんなことをすると思いますが、

顔を水で洗えるのも水との縁、

ご飯を食べるのも、ご飯との縁、

テレビで情報を受け取るのも縁、

駅に向かえば、歩く人、自転車の人など、

同じ配置と状況は二度とないわけですから、

つまり、縁だらけ。縁の連続です。

ようするに、縁とは、特別なことではなく、

淡々と、起き続けているものであり、

言い方を変えると、

生きるということは、

己に何かの縁をつなぎながら生きている。

ということになるわけですねー。

先ほど、

縁とはつまり、縁でしかないものであり、

非常にフラットなもの。

と、書きましたが、

つまり縁とは、何か特別なことではなく、

常に人生の傍らにあるものであり、

人はさまざまな縁の連続の中で生きている。

ということになるわけです。

そういえば、子どものころ読んだ本で、

「いやいやえん」という童話がありましたが、

しげるメンバーが、きかん坊なのは、

(しげるメンバーって誰だよ)

目の前にある縁が気にいらないー!

ということで、いやいや!と、

きかん坊になっているわけですから、

「いやいや縁」というタイトルなんでしょうねー。

(ちゅーりっぷほいくえんの「えん」だわ)

(しかも、いやいや縁って、なんの話だよ)

因と縁

そんなことはさておき、

話を種に戻しますと・・・、

机の上では芽は出ないということは、

つまり、芽を出すには、

机の上という縁ではなく、

他の縁が必要であるということですねー。

因縁という言葉があるように、

結果を生じさせるには、縁と因が必要ですから、

種が芽を出すにも、縁だけではなく、

因も必要だということです。

そういえば、拙者・・・、

先日、知らない高校生の子たちに、

お金貸してくれと言われたので、

ないと答えると、

「ジャンプしてみろ」と、言われ、

ジャンプして楽しい時間を過ごしましたが、

(それは、因縁をつけられてるんだよ)

そんなことはいいとして・・・、

(いいのかよ)

つまり、「土」という縁には、

種が持っている因とは重なりますが、

「机の上」という縁では、重ならず、

芽は出ないということですねー。

ま、土の中に埋めても、

種が、芽を出せない因を持っていると、

縁があっても芽は出ませんし、

また、芽を出そうとするときに、

誰かに踏みつけられるという、

新しい縁に出会えば、

芽を出すこともありません。

そして・・・、

拙者も未だに芽は出ていませんが、

請求書を見るたびに、

目が飛び出すのが自慢です。

(お主はトムとジェリーか)

ま、小さなことからコツコツと。

という感じです。

(あー、西川きよしさん)

まー、つまり、縁とは、いつ、どのように、

どういう理由で出会う。というような、

予測ができません。

予測ができないから、

望むこと、望まないことを問わず、

さまざまな出来事という縁に遭遇するわけで、

つまり、その出来事と、己の内側にある、

「その出来事をどう受け止めるか」

という因が結びつき、

結果ということになっていくわけです。

まー、簡単に言えば、

AさんとBさんが同じ映画を見た場合、

映画という縁は同じでも、

それぞれの持っている因が違うので、

映画の感想が変わり、

今後の人生に与える影響も変わる。

という感じですねー。

運と因縁

出来事に対する受け止め方によって、

今後の人生に与える影響が変わる。

ということは、

ようするに、己から出すものが変わる。

ということであり、

つまり、己から出すエネルギーが変わる。

ということです。

ようするに、自己中な人に縁があり、

己の持っている因に従い、

腹立つわー。という受け止め方をする人。

また、己の持っている因に従い、

人のふり見て、己を戒めよう。

という、受け止め方をする人。

このように、自己中な人に会った。

という縁は同じでも、

己が持っている因によって、

出すエネルギーが変わるわけですねー。

いいことばかりはありゃしないとか、

やまない雨はないとか言ったりしますが、

禍福はあざなえる縄の如しというように、

個人のエネルギーは、

プラスマイナス0を目指して、

常に動いています。

プラスマイナス0ということは、

言いかえれば、バランスですが、

バランスを取ろうという力が働くため、

出したエネルギーに、

相応しいエネルギーが戻ってくる。

つまり、それが運ということです。

幸福は善によってつくられる

ただ、問題なのは、

そのエネルギーの戻り方が、

今を基準にしていないということです。

どういうことかというと、

一気にまとめて戻るのか、

少しずつ戻るのか、均等に戻るのか、

はたまた来世に持ち越すのか。

というのが、予測がつかない。

つまり、今、出したエネルギーが、

戻ってくることは決まっているけど、

いつ、どれだけの量で返って来るかは、

わからないということです。

このことを仏教では、

異熟果、等流果などといいます。

異熟果は異なって熟すということですから、

出したエネルギーの総量は同じでも、

形を変えて返ってくるということ。

誰かを殴ったら、殴られなかったけど、

そのかわりに、こけて怪我をした。

みたいな感じです。

等流果は、等しく戻ってきます。

まー、殴ったら殴られた。

みたいなもんですねー。

ま、いずれにしても、

そういうことを前提に考えてみると、

出すエネルギーを善にすれば、

返ってくるエネルギーも善。

ということになるわけで、

ま、善であれば、

松村和子さんの歌のように、

帰ってこーいよー♪と、

歌いたくなるものであり、

幸福な円満は善によってつくられ、

不善により苦は生ずる。

ということになるわけです。

ちなみに善とは、

己も他も後でよくなることであり、

悪とは、己も他も後で苦しむことになる。

ということであり、

欲が満たせたから善、満たせなかったら悪。

ということではありませんが、

つまり、運とは、己の出したエネルギーが

どのように、どのタイミングで返ってくるか?

ということを指しているわけであり、

己が出したエネルギーに対して、

バランスを取ろうとするということは、

返ってくるものをよくして、

運をよくすることはできるんじゃね?

ということになるわけですねー。

つまり、己の内部にある因を整え、

日々起きる、縁に対して向き合い、

善きエネルギーを積み重ねていけば、

拙者のように、ついてねーよ。という、

環境になるはずがないということです。

ま、己を振り返ってみると、

なんだかんだ言って、

己に相応しいものが返ってきてるなー。

と、実感する、今日この頃ですが、

先日はとうとう、

質に入れていた着物が流れてしまい、

ついに返ってきませんでしたので、

帰ってこーいよー♪

と歌う、今日この頃です。

(お主もどこかに流れてしまえ)

※たびたび変更してまいりましたが、

多忙により、7月より、週に一度の更新に、

変更いたします。

よろしくお願いいたします。

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