筏を捨てると「空」になる

筏というと・・・、

千葉県にあるのに、東京と名のつく、

某テーマパークにある、

トムソーヤ島の筏ですが、

トムソーヤといえば・・・、

洞窟でこうもりを食べていた、

インジャン・ジョーが、

未だに忘れられない拙者です。

そんなことはさて置き・・・。

仏教に、筏のたとえという話があります。

簡単に説明すると、

向こう岸に渡るために使った筏は、

役に立つからと持っていくのではなく

さっさと捨てましょう。(超訳)

という話です。

(簡単すぎるわ)

激流を越えて、いわゆる、

涅槃、ニルヴァーナに渡るために、

自らが説かれたその智慧を、筏に例えて、

そんな筏なんか、捨てちまえ!

と、おっしゃるわけですねー。

(どういうことだよ)

まー、自身が説いた法を、

永遠に有難がれ!とか、

自身の著作を、たくさん買え!とか、

アマゾン乱金グ○○位!などと、

(ランキングだろ)

売れてますPRをして、

お主も読め!的な誘導をする人は、

たくさんいますが、

(誰のことだよ)

向こう岸に渡る智慧?

そんなもんさっさと捨てな。(超訳)

と、おっしゃる方を、

拙者はあまり知りません。

レシピや楽譜

レシピをたくさん知っているだけで、

料理はできませんし、

また、楽譜をたくさん知っているだけで、

楽器の演奏はできないものですが、

レシピや、楽譜も、

先ほどの筏と同じですねー。

ようするに、その料理を、

目を閉じてもつくれるぐらい、

己のものにしたのなら、

(目を閉じては、つくれないけどな)

もう、そのレシピに用はないわけで、

また、楽譜を見ずに演奏できるなら、

楽譜はいらないというわけです。

そもそも、レシピや楽譜というのも、

「できるようになってね」

と、いうために存在するものであり、

いってみれば、

できるようになるためのノウハウです。

つまり、レシピや楽譜って、

できるようになることが目的であり、

大事にしたり、本棚に置いたりして、

その人をそれに縛り付けることが、

目的ではないということですねー。

セミナージプシー

仏教では、法。

いわゆる真理については2種類ある。

と、考えます。

まずひとつは、「証得の法」といい、

ようするに、悟った内容のこと。

もうひとつは、「教の法」といい、

ようするに、言葉のことです。

ようするに、言葉というのは、

ノウハウとか、方便ということですが、

真理であろうと、なんであろうと、

人間は一度、言葉にして学ばなければ、

理解することができませんねー。

まー、拙者は、言葉でもさっぱり・・・。

というのは、ここだけの秘密ですが、

(秘密じゃなくて、みんな知ってる)

ようするに、教の法で学んで、

それができるようになったら、

もう、教の法は必要ない。

つまり筏とは、この「教の法」のことで、

会得したのなら、有難いものだからとか、

役に立つなどと、執着するのではなく、

誰かにあげたり、さっさと手放しなさい。

ということです。

セミナージプシーという言葉があるそうです。

ようするに、本を読んだり、

セミナーなどに参加して、

「新しい学びができました!」

などというわりに、現実は変化しないので、

また別の本を読んだり、他のセミナーに、

参加する人たちだそうです。

人間が本気で学ばなきゃならないことなんて、

この世には、たいしてないし、

また、それに出会った人なら、

ジプシーなんてやってないわけですが、

本気で出会ってないと、本棚を埋めてみたり、

勉強していまーす。などと、

SNSに投稿することが目的になり、

学びを会得することが、第一目標に、

ならないのかもしれませんねー。

(いいね!)

聞思修

「もんししゅう」という言葉があります。

ようするに、男はつらいよシリーズや、

小津安二郎作品といえばこの方。

と、いわれるような、

昭和を代表する名優ですが、

(それは「りゅうちしゅう」さんだろ)

それはさておき、もんししゅう。

漢字で書くと「聞思修」ですが、

つまり、言葉で聞いて、考えて、

理解して行動するということであり、

この、3つの精進によって、

心を養っていくわけですねー。

例えば、

ただ聞いて、読んで、考える程度なら、

映画やテレビを見るような感じですから、

洞窟でこうもりを食べていた、

インジャン・ジョーが、

未だに忘れられないことがあるとはいえ、

(それはお主だけ)

心を磨くということについては、

さほど意味を持ちませんねー。

聞いて考えるだけで、行動しなければ、

先ほどの、レシピや楽譜と同様、

料理を食べることも、

演奏を聴くこともできません。

聞思に、その先の修が加わることにより、

絵に描いた餅でなくなるわけですから、

つまり、セミナージプシーから、

転職ができるということになり、

(職業じゃないよな)

そして、タウンワークやインディードで、

新しい仕事を見つけたら、

その求人誌は捨てればいいわけです。

(なんの話だよ)

さて、いきなり「空」などという、

なんだか意味不明のタイトルですが、

まあ、ようするに、アレです・・。

会話に困ったときの、

「たちつてと」で、おなじみの、て!

つまり、天気のことで、

今日はいい天気ですねー。

今日から梅雨に入りましたねー。

なんていう話ではなく、

いやー、お主の頭って空っぽだよな。

という話でもなく、

(それは正しいだろ)

いや・・・、それは正しいことですが、

(そうだよな)

そしてついでに、財布も「空」ですが・・・、

(うん、知ってる)

そんなことより、なぜ、

筏を捨てよと、おっしゃるのか。

について、書いてみようと思います。

仏教で空といえば、

まず思い浮かぶのは、般若心経でしょうか。

色即是空 空即是色というフレーズは、

結構、有名ですね。

空性を簡単に言えば、執着がない。

ということでしょうか。

まー、執着がなければ、損得を考えたり、

利害を気にして思い煩うことがなく、

心はいつも自由ですねー。

我欲というものは、楽に向かうことは少なく、

心配や苦の原因になることが多いものです。

つまり、種が少なくなればなるほど、

思い煩うという芽は出てこないわけですから、

執着という種を増やさなければいいわけで、

料理や楽器と同じように、

自然にできるようになったのなら、

空性を満足する妨げになるだけ。

つまり、手段である筏は捨てなさいと、

説かれているわけですねー。

ようするに、学びをありがたがって、

それでおしまい。ではなく、

学んだら、それを実践し、体験しようね。

ということであり、

体験し、習慣になったら、

さっさとテキストを処分できるぐらい、

執着から離れようね。ということですが、

拙者、我が身を振り返ってみると、

頭の中は空、財布も空ですが、

古本屋さんに、

査定には半日かかりますと言われるほど

本棚には本があります。

(お主の空はあべこべだな)

※現在、4日に1度、記事を配信しています。

次の配信は16日です。

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