感謝とお礼の違い

劣等感と高慢さ

優秀で賢い人ほど、他人の欠点が、

いろいろ見えてしまうものです。

と、こんなことを書いておきながら、

拙者はバカですので、実はよくわかりません。

ま、あーりがーとさーーん。

という感じです。

(それは、アホの坂田さん)

まあ、優秀なので、

仕方がないかもしれませんが、

人の欠点が見えてしまうと、

イライラしたり、腹を立てたり、時には、

高圧的な態度をとる人もいるものですねー。

まあ、優秀で賢いのなら、

己の知恵をどう共有すればいいか?とか、

どう智慧を使えばいいか?と、考えればよく、

高慢になる必要はないと思うのですが、

高圧的な態度をとる人の多くは、

劣等感を持っていて、

自分の方が相手より優位だと誇示し、

劣等感を回復しようとするわけです。

(いえすあいどぅー)

(それもアホの坂田さん)

誰かと比べて、

己の劣等感を回復しようとすると、

いつか限界が来ますねー。

理由のひとつは、世界は広いわけですから、

いつかは回復できない人に出会うということと、

もうひとつは、己を誇示していると、

だんだんと謙虚さがなくなり、

高慢さが顔を出してくるからです。

高慢が顔を出すと、俺って、サイコー。

みたいに勘違いしてしまいますから、

だんだんと努力をしなくなります。

努力をしなければ、成長もない。

そうなると、いつか限界がくる。

ということになるわけですねー。

愚か者は高慢

そんな感じで考えてみると、高慢さって、

愚かさの裏返しだと思うわけです。

つまり、無知で愚かな人だったり、

中途半端に賢い人が高慢になる。

つまり、本当に賢い人は、高慢にはならない。

ということです。

ま、拙者は愚か者で高慢という、

どうにもならない状態ですので、

とやかく言える立場ではないので・・・、

とりあえず、

アホはなおるよ 必ずなーおーるー♪

と、歌っている今日この頃です。

(お主は無理)

アホの坂田のテーマ

ま、ようするに、

劣等感を回復するために相手に勝って、

「みたか!」などと思ったり、

高慢にふるまったとしても、

サイコーって思えるのは、その瞬間だけで、

あなたは全然、サイコーじゃないですよ。

ということですが、

(お主のことだな)

ようするに、拙者、

アイタタ。ということです。

(わかってるじゃねーか)

高慢になる人は、もう勝負に負けている。

と、言ったのは、

カール・ヒルティさんだそうですが、

確かに、謙虚さを欠けば、

成長を続けることは難しいわけです。

成長できないと、現時点で仮に優位だとしても、

今いる場所には、いつまでもいれません。

そう考えると、高慢さを育てた時点で、

確かにもう、負けているわけです。

(あー、まさにお主のことだな)

謙虚さを失い、高慢さを育んでしまうと、

今以上の成長は望めなくなる。ということは、

何かの道、例えばスポーツや芸事などの、

いわゆる「求道する者」から考えると、

高慢は求道の敵であり、謙虚さは生涯の友。

ということになりますねー。

お礼と感謝の違い

謙虚さを育むことができると、その次は、

本当の感謝を育むことができるのですが、

謙虚さのないところにある感謝は、

自己の都合の感謝であり、

本当の感謝ではありません。

自己の都合の感謝って、

ようするに、契約みたいなものです。

自己の都合の感謝ですから、

その元となる自己の都合がなければ、

感謝もないわけです。

どういうことかというと、感謝とは、

「○○してくれた時にするもの」

であったり、

「○○になってよかった」という時に、

使うものでもありますが、

それは、どちらかというと、

お礼みたいなもので、

まあ、例えるなら、食事をした後に、

「ごちそうさま、ありがとう」という、

感覚と同じであるわけです。

この場合、食事を食べたから、

感謝があるわけで、

食べなければ感謝はない。

つまり、感謝の元となる、

ご飯が食べたいという己の都合がなければ、

ごちそうさまもないわけです。

ま、いってみれば、

「さんきゅー便所まっち」

と、いうことですねー。

(なにがだよ)

(それもアホの坂田さん)

その反面、自己の都合じゃない感謝は、

自己の都合には関係ありませんし、

本当の感謝とは、ようするに、

「生きているだけで感謝」なので、

感謝が起きる条件はありません。

まー、こう考えると、

お世話になって、お礼も言えない人は論外。

と、いうことになりますが。

というより、拙者・・・、

昔はそうでしたが。

(少しはマシになったか?)

ようするに、お礼とは何かがあって、

その対応としてするものだけど、

感謝とは何もなくてもあるもの。

ということですねー。

そんな感じで考えてみると、

感謝とは、なにかの勉強みたいに、

学んで終わりというものではなく、

また、学んで要領よくやる程度で、

到達できない場所にあるものですから、

心に高慢さを持ったまま、

感謝かー、なるほどねー。などと考え、

こんな時に使えば、得するんじゃない?

という感じに、使いこなせるものではなく、

その、持っている高慢さを、

なんとかしようと行動しなければ、

自己の都合に関係のない感謝はできない。

ということです。

まあ、ようするに・・・、

「来て見てさわって富士通のお店」

という感じで、

体験が必要ということですねー。

(タッチおじさんも坂田さんかー)

富士通さんのCM

賢者は謙虚

そういう感じで考えてみると、

優秀だけど、高慢さを持つ人の場合、

なにかがうまくいけば、

「俺の能力でうまくいった」

と、勘違いをしてみたり、

「手伝ってくれてありがとう」

と、お礼を言うのが精一杯。

ということになりますから、

それは感謝ではなく、お礼だろ!

ということになるわけですが、

謙虚な人が成功した場合、

たまたまこの役割がめぐってきて、

たまたま役割を果たせただけで、

己の力でうまくいったなどと、とんでもない。

と、考えるものであり、

役割をいただいたことに対して、

感謝ができているということは、

つまり、うまくいってもいかなくても感謝。

ということに、なるわけですねー。

ていうか、その前に・・・、

生きてることに感謝ですから、

食事を注文して、帰るときにレジでいう、

「ありがとう、おいしかったよ」とは、

全く次元が違うわけですねー。

ま、それを言うと、

「こちとら、金払ってんだ!」

という態度の人ってどうなるんだい?

って感じですが、

まあ、それはさておき・・・。

(さては、お主のことだな・・・)

ようするに、生かされているという、

謙虚な思考に基づく感謝は感謝だけど、

俺の力で生きているという人の感謝は、

ただのお礼。ということになるわけですが、

拙者も、これまでの行いを反省し、

こちとら、金払ってんだ!

という、お店での態度をまず改め、

これからは、何かしてもらったときには、

ありがとうと言うことにするでござる。

(お主はまず、一段ずつ上がろうな)

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