変わらない理由ってこれ?

大きなお世話

あざける者は叱ってくれる者を愛さない。

知恵のある者にも近づかない。

という言葉が、

箴言の15章12節にあります。

あざける者は叱ってくれる者を愛さない。

ということですが、

この「あざける者」とは、

真理を知ろうと生きている者ではなく、

例えば、欲望に生きようとしている者。

という感じでしょうかー。

真理を知りたいと、

己を磨きながら生きている人なら、

気分で理不尽に叱る人を遠ざけても、

わざわざ、己のためを思って、

叱ってくれる人を遠ざけたりしませんよね。

己を磨くということは、

正しい方向に向かっているという、

確固たるものがなければ、できないものです。

ということは、

あざける者とは、それとは反対の人。

ということになりますねー。

ようするに、叱られるということは、

あざける者からしてみれば、

大きなお世話ということです。

つまり、

「子どもがまだ食ってる途中でしょうが!」

という感じですねー。

(なにがだよ)

(北の国から 84夏)

いろいろな知恵

そして、知恵のある者にも近づかない。

ということですが、

知恵のある人とは、ようするに、

真理を知ろうと生きている者のことであり、

欲望を満たすためには、こうすればいいよ。

というような、動物的な知恵を、

持っている人ではありません。

まあ、動物的な知恵とは、

やはり動物のものですからねー。

いうなれば、ルールルルル

ということですねー。

(それも、北の国から)

ようするに「あざける者」という、

欲望に生きようとしている人は、

より多く、物が欲しいわけですから、

「獲物がたくさん獲れる3つのステップ」

という、欲望を満たすような

セミナーに行ったり、

また、獲物をとる方法を教えてくれる、

先生に叱られたり、

また、そういう先生を、

尊敬することはあるでしょうが、

まあ、真理を知っている人のことなんか、

ぶっちゃけ、どうでもいいわけでー。

ようするに、叱ってくれる者を愛さず、

知恵のある者に近づかない。

という言葉の意味は、

己のことだけを考え、

己の欲望に生きようとする者は、

人の道ってそうじゃないだろー。

人は、世のため人のために生きてこそだろー。

この世で受けた恩が見えないのかー?

感謝はないのかー?と、

人の道を説く話はどうでもいい。

と、いうことになるわけであり、

感謝を感じないということは、

「おかげさま」ではなく、

「俺が、私が」ということですから、

「誠意って、何かね?」じゃなく、

(菅原文太さんかよ)

「謙虚って、何かね?」

ということになるわけです。

(北の国から 92巣立ち)

謙虚な人

謙虚な人は誰からも好かれるのに、

どうして謙虚な人になろうとしないのか?

という、

トルストイの言葉があるようですが、

この言葉に対する、答えを考察してみると、

ま、ある意味、仕方のないことですが、

小さい時から大人に偉くなれと教えられ、

そして、偉くなろうと生きてきた結果、

いつしかその反対側にある謙虚さが

見えなくなっていた。

と、いうことではないでしょうか?

ようするに、謙虚さを養うより、

勝て、負けるな、抜き出ろというような

方向を向かされて生きていくと、

誰でもそうなってしまうものですねー。

ま、いうなれば

「そだねー」ということです。

(それも北の国だけど、カーリング女子)

「偉くなることが幸せ」

という勘違いのもとに、

多くの人が育っていくと、

己はどれだけ優秀か?という

発信をする社会になり、

また、失敗をしてはいけないという

雰囲気の社会になるものですが、

そうなってくると、謙虚さというものが、

もっと見えにくくなる。

本当に己を磨きたいと思うなら、

慢心よりは謙虚である方が

学ぼうという意欲につながるので、

成長するわけですが、

拙者が叱ってくれる人を愛さず、

また、知恵のある人にも近づかず、

その結果、成長しないのは、

そういう理由も、ひとつはあったわけですねー。

(今日はすべてお主の愚かさの考察なわけで)

(それは北の国からの純の口癖なわけで)

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