主体的な生き方と感謝

フロム※は現代の西欧社会がもつ

自由と豊かさについて思索して、

「現代社会の過剰と倦怠」と表現した。

私たちはこれまで、

生産(物質)と消費(欲望)が

次々と生み出される社会に生きてきた。

際限のない欲求や欲望を植えつけられて、

必要とするよりも多くのものを

持っているのに、

これで十分だとは感じられないでいる。

商品の速度と量についていけないで、

いつも貧しいと感じている。

食事についダイエットを心掛けなくては

ならないほどなのに、

いつも不足を感じている。

このような受動的な生き方からは、

永久に幸せはみつけられない。

幸福は能動的・主体的に、

自分で感じとるものである。

育てたように子は育つ

相田みつをさん書 佐々木正美さん著

文中にあるフロムとは↓

エーリヒ・フロム ウイキペディア

受動的な生き方

受動的な生き方とは、己が主体になって、

生きようとしていないわけですから、

例えば、出来事を環境や他人という、

己以外の責任にすることが、

当たり前になってしまいますねー。

文章の中にもありますが、

そういう思考に陥る理由の一つに、

情報によって思考をつくられてしまい、

自分でも気が付かないうちに、

際限のない欲求や欲望を

だんだんと植えつけられてしまっている。

という側面も確かにあるかもしれません。

必要なもの

現代の日本では、

必要なものが手に入らないということを

あまり聞くことがありません。

というより、聞くことがないどころか、

物があふれていますねー。

物はあふれているうえに、

必要な物を手にしても、

それで十分だとは感じられず、

まだ欲しい、やれ欲しい。という人が

たくさんいる。

そういう状態だから、

「だんしゃり」という言葉ができたり、

片づけには魔法がいるような、

世の中になるわけです。

まー、ようするに、

処分しなくちゃならないぐらい

たくさん持ってるということですねー。

言ってみれば、

「オレは持ってる」by本田圭佑さん

という感じです。

(持ってる物が違うだろ)

感謝の日々

同じ持つでも、感謝を知る心を持てば、

何をしていても感謝なので、

当然、日々の生活も感謝で満たされ、

人生が全て感謝になっていくものですが、

日々の生活にときめかないと、

そのときめきを何かから得るため、

何かを求めるしかありません。

文中に、

このような受動的な生き方からは、

永久に幸せはみつけられない。

幸福は能動的・主体的に、

自分で感じとるものである。

と、書いてありますが、

日々の生活に満足していれば、

受動的な考え方に至ったり、

欲しい、欲しいと、

必要以上に渇愛することはないわけです。

江戸時代は、リユース・リサイクルの時代で、

物を最後まで大切に使い尽くす。

という社会だったようですねー。

食器や下駄、金属製品を修理する業者、

傘の骨や、古着、古い樽を買い取り、

修理・再生する、様々な業があったようです。

まー、経済が違うので、

一概に言うことはできませんが、

少なくとも、新しい物ばかりが売れるなら、

修理する仕事に需要はあまりないわけで、

今よりはそういう時代だったのでは、

ないでしょうかー。

足るを知る、満足を知ることは、

ようするに、己が豊かになるということですが、

それに加えて、そういう生き方は、

受動的な思考を、うみだすことはありません。

欲しい欲しいと、受動的に生き、

得れなければ、心が渇くような人生と、

主体的に生きて、満足。

どちらの人生を歩みたいかは、

言うまでもありません。

(エラそうに言うお主はできるのか?)

というより、とりあえず拙者、

今にも捨てられてしまいそうですので、

リサイクルの江戸に生きていればよかった。

と、一瞬思いましたが、

(やっぱり、できてねーじゃん)

(つーか、リサイクルの江戸って店名かよ)

欲にとりつかれ、欲しい欲しいと思うような、

足るを知らない人間ですので、

結局、江戸時代でもだめじゃん。

という感じです。

(もう時代におねだりせず、主体的に生きろよ)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする