中身と包装紙

いま仮りに、私が一万円を出して

銀行に口座を作るとします。

窓口では、係の女の子が

淡々と事務処理をするでしょう。

ところが同じ私が、

一億円出して同じことをしたとすると、

こんどは支店長が飛び出してきて、

私は大変な扱いを受けると思います。

これは極端な譬えですが、

一万円持とうが、一億円もとうが、

本来の自己(私という人間の本質)は

少しも変わらないんです。

変わるのは銀行の扱い。

つまり、自分の外側です。

変わる外側に目を向けているかぎり、

本当のいのちの安らぎはありません。

本当の安らぎを得るためには、

眼を自分の外側ではなくて、

内側に向けることです。

そして、自分が自分になることです。

相田みつをさん 生きていてよかった

パッケージな人たち

とてもわかりやすいたとえですねー。

一億円という、包装も大事ですが、

包装するには、包む中身がなければ、

包装はできません。

ですが、最近は、

中身がなくても、包装がしっかりしていれば。

という人も、多いようで。

まあー、

本末転倒としか言いようがないし、

本文にもありますが、

それじゃあー、安らぎませんねー。

もちろん、外も中も大事ですが、

外見、職業、地位、年収、学歴、資格・・、

というような、

目に見える外の情報をなんとかしろよ。

という人がいても、

まず中身だろ、中身を何とかしろよ。

と、言う人は、

あまりいないかもしれません。

修羅の道

目に見える情報をなんとかして、

中身をなんとかしないということは、

修羅の道ですねー。

どういうことかというと、

「目に見える」ということは、

ようするに、誰にでも見える。

ということですから、

誰でも見えるもので、人と競えば、

まー、あいつより上だわー。

さすがにあれには負けないわー。とか、

まだダメだー。また負けたー。

あー、あそこにも己以上が・・。

ということになり、目に入れば、

勝った負けたとジャッジをするものです。

そんな毎日を送っていると、

いつ、安らぐの?拙者。

ということになるのは当たり前ですから、

外側だけを見て比べる道とは修羅の道。

ということになるわけです。

内側と外側

中身とは内面、ようするに、

個性といってもいいと思いますが、

己と同じ人がいないということは、

同じ個性は、この世に二つないということです。

その個性に、どんな包装をするのか?

それも楽しいことですが、

まあ、そもそも、個性は二つとなく、

勝ち負けもないものだし、

例えば、包まれている

「あまおう」の気持ちになると、

包装が主役じゃねーわ。中身だわ。

ということですから、

(いきなり、あまおうかよ)

かい、るい、おきい、まい)

(それが言いたかっただけかー)

人の目を気にせず、

好きな包装をすればいいわけですし、

つーか、拙者には、

包装なしの手渡しでいいわけです。

(なんで、お主にやるんだよ)

ですが、個性に目を向けずに、

包装だけを見てばかりだと、

どうしても、包装が気になり、

内側を差し置いて、

包装の勝負をしてしまいます。

まあ、ようするに、

コスプレみたいなもんですが・・・。

それはそれで、

なかなかいいものですねえー。

(結論変わっちゃったよ)

(つーか、鼻の下伸ばしてんじゃねえよ)

まあ、ですが、外側を競っていると、

なぜ、安らぐことがないかといえば、

結局、代わりがいるからですねー。

ようするに、自分じゃなくてもいい。

その包装をされているなら。

ということになり、

選ばれたのは拙者ではなく、お金だったのかー

と、お金が無くなった時点で、

拙者終了のお知らせが届くわけです。

(見栄を張るんじゃない。お金もないんだから)

そして、その人は、

また次の「お金」という包装を探す旅に出る。

ようするに、「兼高かおる世界の旅」

という感じです。(なにがだよ)

中身の立場から包装を見るか、

包装の立場から、中身を見るかによって、

中身と包装の印象も変わるものですが、

両方必要で、両方大事なことなれど、

そもそも、中身あっての包装で、

主人公は中身なのですから、

はじめに磨くのは個性からで、

いいんじゃないでしょうかねー。

ほうそうですか)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする