怒られるうちが花、という言葉の意味

叱られるということ

多くの場合、叱られるということは、

気持ちのいいものではありませんねー。

ていうか、拙者は人の道より、

けもの道を歩く人間ですから、

叱られても感謝ができないどころか、

むしろ腹を立てる人間ですので、

叱られるのは大嫌いです。

(人ごとみたいに書くな)

また逆に「叱る」という行為についても、

人の道を歩いている人からすると、

気持ちのいいものではなく、

本音を言えば、あまりしたくないことです。

ま、ようするに、多くの場合、

「叱るのも、叱られるのも嫌よねー」

という結論になりそうですねー。

叱ることはちょっと・・という理由

叱られることが嫌いというのは、

理解できるとしても、

人の道を歩いている人からすると、

なぜ、叱ることが、気持ちがいいものでなく、

できればしたくないことなのか・・・?

拙者のように、けもの道を歩く者は、

叱られても「己のために言ってくれた」

「叱られて感謝」とは、思えないものであり、

まー、叱られることは大嫌いです。

なぜそうなるかというと、ようするに、

けもの道を歩く人間ということは、

常に己を第一に生きていくことしかできない

動物と同じように、

「自分中心思考」の人間ということに

なるわけですねー。

(お主、人ごとか?)

「自分中心思考」を簡単に言えば、

常に、己の欲を満たすということが、

興味の対象になった生き方。ようするに、

「心の中が自分のことでいっぱい♡」

という人のことですが、

そうなってくると・・・、

己の欲を満たしてくれる人、

ようするに、モテる人の会話術とか、

お金持ちになる3つのステップみたいな、

欲を満たす方法を教えてくれる人が、

優しい人で、尊敬する人。となり、

我欲を満たすことばかり考えていると、

幸せになるどころか、逆に不幸だよ。

絶対に幸せになれないよ。

と、人の道の真髄に触れてくる人は、

己の欲を満たしてくれないうえに、

生き方について、苦言を呈するわけですから、

けもの道を歩く側からすると、

ひどい人だし、嫌いな人です。

(お主のことな)

そんな人(拙者)を相手に叱る・・・。

これには、大変なエネルギーが必要です。

(そうだろうねえ)

いやー、でもやっぱり、

けもの道ってよくないよー。

人生を欲に支配されちゃうと不幸だからねー。

と、思い直し、

相手のことを考え、忠告をしても、

感謝もされないどころか、

「うるせーやつだなー」と、思われたり、

「傷ついた」などと言われ、

むしろ恨まれたり、嫌われる。

まあ、ようするに、

「これって、何かの罰ゲームですか?」

という感じになり、

ヒュルルー ヒュルルー アハハー♪

という状態です。

(大きなお世話サマーかよ)

孔子いわく

また、忠告について語った言葉が、

論語の中にあります。

質問は、本当の友情とはなんでしょうか?

ということでしたが、

友人に忠告することについて、

このように書かれています。

子貢さんという人が、師の孔子さんに、

本当の友情とは?と質問しました。

すると、孔子さんは、

忠告して善い方向に導いてあげなさい。

でも、相手がその忠告を、

聞き入れることができないようならやめなさい。

己を辱める結果にならないようにー。

と、答えられました。

(拙者の超訳)

(だよなー)

子貢問友、子曰、忠告而以善道之、無自辱焉

ま、ようするに、

良き方向に行ってくれればと忠告し、

相手のことを思うのが友情というものだが、

こちらが誼をもって、善意を尽くしても、

それがわからず、

「あいつは、ひでー奴だ」

と、誤解されては、元も子もない。

お主が傷つくだけだぜー。

ということです。

叱られてるうちが花

まー、確かに「叱る」ということを、

「己のストレス発散」的な考えで・・。

例えば、己の立場を利用して怒り、

ストレス発散する、みたいな、

自己中心に考えて叱るだけの、

けもの道の人というかー、

己の欲望だけを見て相手を叱るような、

人の道から外れたヤカラは論外ですが、

(むしろ、こういうヤカラは嫌いましょう)

叱るとは本来、

相手のことを考えてする行為であり、

己の気分や欲望や都合とは、

全く関係ない行為ですねー。

「怒られているうちが花」

「言ってもらえるうちが花」

という、言葉があります。

「叱る」という意味を知っている人。

ようするに、相手のことを第一に考えて、

叱ることができる人からすると、

例えば、人の道がまだわからない、

未熟な拙者を叱れば、

内容もすぐには理解されず、

「あいつ、むかつくー」なんて思われ、

嫌がられると予想がつくけど・・・、

でも、大事なことだし、いつかわかるはず。

と、思いながら、

叱ってくれるわけですねー。

ということは、つまり、

己ではなく拙者のためだから、

怒られているうちが花だよー。

「あー、もう好きにしたら。」

と、思われ、言ってもらえなくなったら

終わりだよー。と、なるわけです。

まあ、ようするに、

「己の気分や、欲望や都合で人を叱る」

という、己のストレス発散行為を、

正当化するために、

「怒られているうちが花」

「言ってもらえるうちが花」

という、言葉があるのではない。

ということであり、

まあ、こんな感じで叱るヤカラには、

大きな 大きな 大きなお世話サマー♪

と、歌っていいんじゃないかな?

と、いうことになるわけですから、

(まあ、いいんじゃね?)

やっぱり、相手に必要なことを見極めて、

忠告してくれるような人については、

叱られているうちが花。でいいわけです。

叱る人、叱られる人

ようするに「叱る」という行為は、

叱る側も、叱られる側も、

未熟では難しいということですねー。

叱る側については、己の立場や都合、

欲望や気分で考えることなく、

己のことは、いったん横に置いて、

相手の立場で考えて叱るのが当然であり、

叱られる側は、

己の欲と距離を取ろうとしてないと、

いろんな欲に隠されて、真髄の話が見えず、

また、興味もわかないものだし、

加えて、真髄を示してくれる人を遠ざけ、

人の道の話も嫌がって、その結果、

人の道からどんどん離れていくという、

何とも情けない状態に陥ってしまいます。

まあ、ようするに、

狂った果実は 危険な恋の味ー♪

という感じですねー。(なにがだよ)

けもの道を歩く拙者のような者には、

欲を満たしたら幸せになれる、

その方法を教えてやるぜ。という

「けもの先生」がちょうどよく、

欲があるのが人間というものだけど、

欲があっても、欲と距離を取り、

自由な人生を歩こうと精進するから、

己、己という思考から自由になり、

はじめて人のことを考える余裕ができてくる。

と、人の道を教える「人の師」の言葉は、

欲で心がいっぱいなわけですから、

そもそも、心に入る場所もないゆえに、

聞きたいとも思わないわけですねー。

(明るく言うとる場合か)

まあ、はっきりいうと、

拙者は人のことを考える余裕がないぐらい、

心が我欲でいっぱいの人間だから、

人の道について、叱られることが大嫌い。

ということですから・・・、

まあみなさん。

絶対に拙者を怒らないでくださいねー。

(あー、なんかこいつ、超ダメダメ。)

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