「させていただく」と「してあげる」

明治時代、京都に

税所敦子(さいしょあつこ)さん

という人がいた。

清水寺の観音さんの熱心な信者でね、

この人が、「母の十恩」という題で、

ここ(清水寺)へ歌を上げてはった。

明治時代やね。いまは、もうない。

この税所敦子さんがよくできた人でね。

鹿児島から出て来ていた旦那さんと結婚して

税所姓になったんやが、

旦那さんに死に別れ、

旦那さんとの間に儲けた子供にも死に別れ、

鹿児島の旦那さんの実家へ帰らはった。

鹿児島には、お母さんが独り居た。

お姑さんやね。

この人が、一昔前の士(さむらい)の

奥さんやったから、

気位が高かったのかね、

鬼婆ァといわれるくらいこわい人やった。

事毎に嫁の敦子さんをいじめるの。

敦子さんは、泣くような目にあいながら、

毎日、お母さんに背かんように、

機嫌を損ぜぬようにつかえていた。

ある日、お母さんは敦子さんに、

あなたは歌人やというから、

これを歌にしてほしいといって、

下の句を出さはった。

なんとそれは、

「鬼婆ァと人はいうらん」 とある。

その短冊を見て、敦子さんは、

ははァと思うた。

またいじめはる、と思うた。

そう思うたが、

そんなこと言えたものではない。

早速、上の句をつけはった。

「仏にも似たる心と知らずして」

と詠んだ。

ひっくりかえってしまったのやね。

「鬼婆ァ」が実は仏にも似たる心やったと、

そう理解していると、

せい一ぱいの意思表示やった。

さすがのお母さんも、これには泣いた。

泣いて、

「済まなんだ、済まなんだ、堪忍してくれ」

と詫びた。

鬼の角(つの)が一遍に折れたのやね。

それで、本当のお母さんみたいになって、

それからは、敦子さん、敦子さん。

敦子さんでなければ

夜も日もあけんようになった。

お母さんは死に際に、

敦子さんの膝の上に首をのせて、

息をひきとったという。

歌一つで、鬼から人間になって帰って来た。

畜生道から帰って来た。

仏様の仕事やね。

敦子さんにとって、そのお母さんは、

生みの母親ではない。

義理の仲やった。

それを、死んだ旦那さんに代わって

やらはったのやね。

仏様のような母の恩に対して、

仏様のような心でこたえたのやね。

大西良慶さん ゆっくりしいや

人は変われない?いや変われる?

ちょっと長い文章ですが、

引用させていただきました。

人間なんて、そう簡単に変わらないよ。

なーんて言う人もいますが、

確かにその通りでもあるし、

また、文章にあるように、

歌一つで、鬼から人間になった。

畜生道から帰って来た。

ということもあるわけですねー。

嫁いびり

「姑の嫁いびり」といえば、

橋田壽賀子さんのドラマですが、

(言い切ったな)

まあ、文章にある時代とは少し違って、

最近はやれ法律の検索だの、

結婚の条件は同居はしないだのと、

どちらかというと、

ネットを使いこなすことに巧みな、

お嫁さんの方が強いものですから、

現代では、お姑さんの嫁いびりを見て、

溜飲を下げているのは、

お姑さんたちかもしれませんねー。

ウソくらべ 死にたがる婆 とめる嫁

なんていう川柳があります。

これだとまだ、水面下でぐちゃぐちゃと。

という感じで、なんとなく余裕があり、

争いというほどのことではない感じですが、

人が集まれば、争いが起きる。

というぐらい、争いは、

嫁姑に限ったことではありませんねー。

まあ、怒りが煩悩の中で、

最も手強いものですが、

そこらあたりの話になってくると、

拙者もエラそうには言えませんねー。

感謝と義務

旦那さんがなくなっても、

届け出をして、義母と姻族関係を終了させれば、

面倒なんて見なくていいのよ。とか、

亡くなった夫の母だから面倒は見ないと。

などと、いろいろ意見がありますが、

どちらにしても、面倒を見るということが、

「義務」という範疇の中で、

考えられているわけですねー。

このお話は、このように結ばれています。

孝の教育は、なにがなんでも親には

孝養をつくさねばならないという。

人の道として、しなければならないという。

仏法は違うの。

孝養をせよというのではなくて、

孝養以前の道理を説く。

自分がいま生きているのは、

親の恩をはじめ、

あらゆる人々の恩恵にあずかっているという

事実に目を向けるの。

すると、せめてその恩の何分の一かでも、

報いずにはおれなくなってくる。

「しなければならぬ」と、

「せずにはおれない」と、

結果においては一緒でも、中身が違うの。

ようするに、動機が義務と感謝では、

同じ行動をして、同じ結果になったとしても、

全く違うということです。

普段、己が受けている恩の大きさに、

気づくことができれば、

感謝が動機になり、自然と、

「させていただく」という気持ちになる。

という感じになるわけですが、

義務であれば「させていただく」ではなく、

「してあげる」です。

仏法は、己がどれだけの恩を、

この世で受けているか?

という智慧を手渡し、

自然と感謝の心に導くので、

「義務だから無理にでもやりなさい」

とは、基本的には言いません。

まあ、言ったとしても方便ですねー。

先日、

人の道を知らぬ者は鳥獣に等しい

にも書きましたが、

武士道の根底にも、

「恩を知る」ということがあり、

恩に報いるため、

場合によっては、己の命を投げ出す。

という境涯まで積み重ねるという道が、

ようするに、武士道であるわけです。

山本常朝さんが書いた、葉隠に

「武士道とは死ぬことと見つけたり」

という、有名な言葉がありますが、

この言葉は、死を賛美したわけではなく、

恩に報いるため、場合によっては、

己の命を投げ出すことができるか?

そう心がけ、生きることができているか?

という意味であり、

いたずらに死を選ぶことを、

奨励した言葉ではありません。

武士道を構成するひとつに、

「勇」があります。

勇とは、どんな状況でも恐れず、

義のために立ち向かう気持ちや、

どんな状況でも穏やかに平常心でいたり、

いざというときにも、心を乱さず、

何ものにも動じない心であると説きますが、

勇とは、向こう見ずな挑戦や、

後先を顧みない行動ではありません。

むしろ、与えられた命に感謝し、

生きて、国や家族を守り続けることが、

武士の重要な仕事であり、

無駄に命を散らせる者は、

「匹夫の勇」だと、

戒められるわけですねー。

閑話休題・・・。

少し話がそれてしまいましたが、

「させていただく」という人生と、

「してあげる」という人生。

どちらが幸せなのかは、

それぞれの判断でいいとしても、

拙者のように、

義務だからー、義務だからー。という

言動や行動しかできない人間のまわりには、

権利だー、権利だー。という人間が、

どうしても集まってくるようですが、

こんなお姑さんの面倒なんて見れない!

復讐してやる!などと、修羅場を起こして、

御用だ、御用だ。とならないように

気合いだ、気合いだで精進するでござる。

(なるようになるさ。)

(ま、慰めたわけじゃなくて・・・、)

(橋田壽賀子さんのドラマのタイトルね)