愚者とは賢者?

もしも愚者がみずから愚であると考えれば、

すなわち賢者である。

愚者でありながら、

しかもみずから賢者だと思う者こそ、

「愚者」だと言われる。

愚かな者は生涯賢者につかえても、

真理を知ることが無い。

匙(サジ)が汁の味を知ることが

できないように。

聡明な人は瞬時のあいだ賢者に仕えても、

ただちに真理を知る。

ー舌が汁の味をただちに知るように。

ブッダの真理のことば・感興のことば

中村元先生訳

賢者と愚者

一般的に考えてみると、多くの場合、

賢者は賢者、愚者は愚者であり、

愚者が「俺って愚かだなー」と、

己と向きあったとしても、

「あいつ、馬鹿じゃね?」

「つーか、今知ったの?」などと言われ、

その人は賢者にはなりませんねー。

ですが「俺って愚かだなー」と、

己と向きあえる人が賢者であり、

例え、どれほど優秀な人であっても、

「あいつ、馬鹿じゃね?」

という人は愚者であり、

しかも、生涯賢者に仕えても

愚者のままと、仏典にはあるわけです。

まあ、ようするに・・・、

成田幸雄さんということです。

(成田幸雄さんって、誰だよ)

(昭和のくしゃおじさん)

(つーか、今話してるの愚者だよな・・・)

賢さに続く道

とかなんとか言っていると、

「いやー、やっぱ馬鹿は馬鹿だし」

「つーか、賢い奴は賢いに決まってるでしょ」

などという、鼻持ちならない若造の言葉が

聞こえてきそうですが、

(どんな偏見だよ)

(ていうか、過去に誰と何があった?)

だいたいは、賢くなろうと学び、

少しでも上を目指して切磋琢磨するもので、

「俺って愚かだなー」などと、

己の愚かさを認めるということは、

敗北であり、屈辱です。

例えば、

「1位を狙って手にしよう」と努力し、

結果を手にすることは可能でしょうが、

そのやり方だと、

「俺は、1位を狙って手にしたんだぜ」という、

高慢さも、もれなくついてきます。

まあ、ようするに、

(1位など)結果を出せることが賢さ。

という賢さって、結果を追及しているだけで、

賢さや知性を磨いていることとは、

少し違うわけですねー。

だから高慢がついてくる。

こういう道の上にいる人が、

今後どうなっていくか、

だいたい想像がつくと思いますので、

その先のことまで書きませんが、

結果を出し続けることなんて、

簡単にはできないわけですから・・・、

ま、そういうことですよねー。

真の賢さに続く道

ようするに、結果を出すことが賢さ。

という人の道には、高慢がついてくる。

ということですが、

そもそも賢者とは、高慢を手放した人です。

高慢を持っているということは、

仏典にあるように、

愚者でありながら、賢者だと思う者は、

愚者ですよー。

ということになるので、

まあ、ようするに、桃中軒白雲さん。

ということになるわけです。

(誰だよ、桃中軒白雲さんって)

(昭和のくしゃおじさんの別名)

(知らんがな)

高慢な人は、主語が「己」ですが、

賢者は主語がおかげさまです。

例えば、高慢な人は、

結果を出せたのは己の努力、そして才能であり、

また、欲しいのは結果であり、

その行動の源泉は己の欲ですが、

賢者の目標は、己を超えることであり、

己を超えたあとで、結果がどうか?

ということであり、また、

結果を出せたのもおかげさまです。

今、平昌オリンピックが開催されてますが、

選手のインタビューを聞くと、

感謝という言葉や、己を超える、

己との戦い、などとというセリフが、

多く聞けるのではないかと思います。

まあ、結果を出せない人を見て、

「そんなこともできないの?」

「あいつ、馬鹿じゃね?」的な言葉が、

まず、出てくることはないわけですねー。

牛が飲む水は乳となり

蛇の飲む水は毒となる。

という言葉が、華厳経にありますが、

例えば、賢者と愚者が、

同じ1位という結果を出した場合、

他の人にも「できるよ」と、

希望や感動を与える賢者と、

「君、そんなこともできないの?」と、

生きる力を奪おうとする愚者のように、

双方、同じ水を飲んでも、牛は乳を出し、

蛇は毒を出す例えのように、

全く違ってくるわけですねー。

・・・・・

などと、いろいろ書いておりますが、

拙者はまぎれもなく愚者であり、

ようするに、東ひょっとこ・おかめ

というわけですが、

(東ひょっとこ・おかめ?)

(昭和のくしゃおじさんの別名)

(お主、やっぱり愚者だな)

拙者、ここだけの話・・・、

己の愚かさを知った賢者ではなく、

正真正銘、本物の愚者なのでござるよ。

(よーく、知ってる)