初陣、海ノ口城

武田信玄の初陣

武田晴信さん、後の武田信玄さんが、

父の信虎さんと、平賀源心さんが守る、

海ノ口城を攻めた時の話です。

甲陽軍艦によると、攻めたのは、

天文5年(1536年)の11月。

その年16歳で元服した晴信さんの

初陣であったとのことですが、

まー、この海ノ口城攻め、

事実あった、いやなかった。

いやあったが、話が大きくなっているなどと、

いろいろと諸説があるようです。

加えて、引用する甲陽軍鑑についても、

虚妄が多い?という評価もあるので、

うーん。という感じですが、

そんなことを言い始めると、

どの資料もそうじゃない?

となってしまうし、実際、ネットがあり、

情報を入手しやすい現代でも、

つかめるのは、出来事の概要程度で、

その出来事の背景や、

その出来事にかかわった人の感情まで、

なかなか知ることはできませんねー。

それこそ、

ウィキペディアなどに書かれた、

芸能人の情報などは嘘が多く、

みんなそうじゃないか。なんて

実際に書かれている方が

メディアで言ってましたが、

現代でも当事者と第三者では、

情報についての温度差があるわけですから、

昔の話になってくると、

ある程度は仕方ないことだと思います。

海ノ口城攻め

なんだか話が逸れてしまいましたが、

とりあえず、甲陽軍鑑に基づいて書いてみると、

信虎さんは海ノ口城を、

34日の間、包囲したようですが、

大雪にみまわれたうえに、

城が落ちる気配もないので、

いったん陣を引こう。

ということになったそうです。

その時の気持ちを、信虎さん、

また会う 日までー 会えるとーきーまで

別れの そのわけは 話しーたくないー♪

と、歌ったそうです。

(尾崎紀世彦さんの歌じゃねーか)

その歌を聞いた初陣の晴信さん、

殿(しんがり)をさせてくれと申し出ます。

(だから歌は聞いてない)

ですが、撤退する訳は話したくないと、

歌ったぐらい、傷心の信虎さんに、

(やめなさい)

初陣のお主に、しんがりは無理。とか、

大雪で風もあるし、追撃はないと思って、

しんがりをかってでたのだろう。

などと、言われてしまいますが、

最後は晴信さんに任せて、

もう悩みはやめてー 今に賭けたー

時の流れ止めて このままー生きたいー♪

と、歌いながら、

12月26日に甲斐に帰国したようです。

(尾崎さんの「あなたに賭けた」だな)

一方、板垣、小幡の両将と

兵300を預かった晴信さんは、

兵に3日分の食料を持たせ、

ぬかりないように敵の追撃に備えさせたが、

雪は降るかい、風は吹くかいということで、

夜になっても敵はこなかったそうです。

いってみれば、

ゆーきーは降るー あなたは来ない♪

という感じですねー。

(それは「雪が降る」だろ)

そこで、夜が明けそうになると、

おもむろに兵を向け、海ノ口城を奇襲。

敵方は、甲斐に引き上げたと油断し、

寝込んでいたとか、

また、城兵は正月の準備をするため、

ほとんどが家に帰り、

守備が手薄だったともいわれますが、

奇襲は成功。

守備をする平賀源心を討ち取ったそうです。

孫子の兵法

孫子の兵法に、

「兵は詭道なり」という言葉があります。

「詭道」とは、正攻法ではなく、

思いもつかないことをする。という意味で

「兵は詭道なり」とは、

戦争とは敵を欺くことだ。

という意味になります。

「敵が思いもつかないこと」

と、言うのは簡単ですが、

それは、その場の状況によって、

常に変わってくることですし、

もし、敵が予測していれば、

反対に己が危ないわけですから、

行うことは簡単ではないですねー。

晴信さんも、はじめは純粋に、

しんがりをするつもりだったかもしれませんが、

海ノ口城の様子を探り、

この状況なら奇襲は思いつかないだろうと考え、

奇襲をしかけたのかもしれません。

「風林火山」を旗印にするぐらい、

孫子を学んでいた晴信さんですから、

「兵は詭道なり」という言葉を知っていて、

その策を実行に移したということも、

十分に考えれると思うわけです。

一瞬の油断が命とり。になってしまうのは、

現代でも同じことでしょうが、

普段から緊張感が無く、

だらだらと生きている拙者は、

戦国の世なら、

もうこの世にはいないかもしれません。

その時の拙者って、

別れの そのわけは 話しーたくないー♪

という、心境でしょうが、

みなさまも油断には、

くれぐれもご用心でござるよ。

(お主が一番ご用心だわ)

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