いつやるの?今でしょ

只管打坐

道元禅師は、

いわゆる「鎌倉新仏教」という、

仏教の変革の時代に永平寺を開かれた、

只管打坐(しかんたざ)で有名な、

禅宗である曹洞宗の開祖です。

ちなみに、只管打坐とは、

ただ座る。座ることと一体になりきる。

という坐禅です。

拙者の少しの知識で、拙い説明をしてみると、

ただひたすらに坐禅をし、坐禅になりきると、

「悟りたい」という気持ちも消えます。

その状態を「身心脱落」と言いますが、

身心脱落とはようするに、

自己が消えた状態であり、

いわゆる「空、無我」という状態です。

悟ろうとして「坐るぞ!」と頑張ると、

「悟るぞ!坐るぞ!」という自己が、

そこにいつまでも、いることになり、

「空、無我」にはなれませんが、

坐禅と一体となることで、

「悟るぞ!坐るぞ!」という自己が消える。

ですので、

悟ろうとして坐るのではなく、ただ坐る。

ただひたすらに坐り、坐禅と一体になる。

ということになるわけですが、

それって、結局、悟りを得るために精進し、

勉強し、積み重ねた結果ではありません。

ただ、坐禅と一体になったからです。

ということは・・・、

はじめから悟っていたから、

坐禅と一体になれ、

坐禅と一体になったことで、

それに気づいただけ。という結論になります。

人間は仏性を持っていると言われます。

仏性を持っているなら、仏になろうと、

修行する必要はないわけです。

動物に生まれては只管打坐はできませんが、

悟りの中にすでにいる己だからこそ、

坐ることができるし

坐ることで己の仏性に気づくことができる。

ようするに、坐るということは、

仏になるためではなく、

もともとある仏性に気づくため、

また、己の仏性をさらに磨くために坐る。

ということでは、なかろうかー。

このように、拙者は理解しております。

典座教訓

で、話が長くなりましたが、

その、道元禅師の書かれた、

「典座教訓」の中に出てくる逸話です。

道元禅師が中国で修行中に、

老典座(68歳)が暑い中、笠もかぶらず、

汗を流しながら苔を干しているのを見て、

「誰かに変わってもらってはどうですか?」

と、声をかけられたそうです。

すると「佗は是れ吾にあらず」

(己がやったことにならない)

と、答えたので、

「もう少し涼しくなってやっては?」

と、声をかけると、

「更に何(いず)れの時をか待たん」

(いつやるの?今でしょ)

だったそうです。

(それは、林先生)

ようするに、

「林先生・・、その回答、お見事です」

という感じですねー。

(なにがだよ)

今ここ

典座(てんぞ)とは、

食事や供養膳をつくる職のことです。

曹洞宗では、坐禅や読経だけが

仏道の修行ではなく、

食事を作ることは重要な修行のひとつです。

己の仕事を他の人に任せていては、

己の修行にはならないし、

また、時は過ぎてゆくものなのに、

都合のいい時は?などと考えていては、

あっという間に時間は過ぎ、

食事をつくること(修行)などできない。

ようするに・・・、

いつやるの?今でしょ。

ということですねー。

嫌だから誰かにしてもらいたい。とか、

少しでも楽になるように。とか、

どうすれば要領よく

楽に、手抜きをして生きていけるか?

と考えるのは、他でもない拙者ですが、

結局、やらなければならないことは、

やらなければならないわけであり、

己がやらなければ、

己の経験にはなりませんねー。

(知らなかった!)

(林先生が初耳だったので、初耳学認定です)

(林先生、関係ないし)

時のー 過ぎゆくままにー

この身を任せー♪というのは

沢田研二さんの歌ですが、

これを拙者のような凡夫がやると、

ただの横着でしかありません。

己の経験にならないということは、

己の歩みは止まったままです。

己の成長は止まっても、

関係なく時は過ぎていくわけですから、

ちょっと考えるだけでも、怖いものですが、

「いつも今ここ」という気持ちが、

浸透していない拙者は、

気が付くと呆けていたりするので、

ちゃんと、精進しなければなりません。

(それは初耳ではないなー)

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