苦と楽は、実は同じこと

苦労をしなさい

少なくとも避けようとしなさんな。

人間は苦労によって

幅と厚みとが出来るからです。

凡人は自分だけが苦しんでいる

と思っているから

「やり切れぬ」と思うのです。

ところが、こうした苦労は

過去にも必ずや経験した人があり、

現在もまた経験しつつある人があり、

将来も尚、経験する人があるものです。

人間もこの辺のことが分かってくれば

わが苦しみから

他人の苦しみを想う慈悲心が生まれてくる。

そして苦しみのある時は、

「自分をおめでたくしない為の神の恵みだ」

と思えるようになるのです。

森信三さん 訓言集

苦労は買ってでも・・

まー、苦労は肥やしなどといいますが、

そういうものだよなー、と思う反面、

苦労なんてイヤン。とも思うものです。

苦労は買ってでもしろ、なーんて言いますが、

そんなこと言うと、

「じゃあ、買ってくれよ」って、

言われそうですし、

本音を言うと、楽しいことだけしていたい。

と、思ってしまうものですよねー。

尾崎豊さんの十五の夜なら、

とにかくもう、学校や家には

かえりたくないー♪

という感じですね。(なにがだよ)

苦楽は同じメカニズム

楽ばかり求めず、苦労しましょう。

などど、いうつもりはないのですが、

実は苦を避け、楽を求めるメカニズムって、

全く同じだったりします。

苦を避けようとすることと、

楽を求めようとすることって、

全く逆だし、違うように見えますが、

どちらにしても、

苦か楽かの違いで執着してるじゃん。

ということになり、実は同じことなんです。

うーん。

だとしても、楽がいいわー。

と、思ってしまいそうですが、

どちらにせよ苦楽のどちらかに、

執着してしまうということは、

苦はイヤだよー。とか、

楽しいことがなかなか起きないよー。

という感じになり、どちらにしても、

「思うようにならない!」という、

新しい苦をつくる可能性があるぞ。

ということなんですねー。

まあ、十五の夜でいえば、

やり場のない気持ちの 扉破りたいー♪

という感じでしょうかねー。

中道という考え方

まあ、考えようによっては、

苦しい出来事が起きて、

「苦しさよ消えてくれー」という

思うようにならない苦しみより、

楽しい出来事が起きて、

「また、起きないかなー」という、

思うようにならない苦しみの方が、

いいような感じがしますが、

どちらにしても、

思うようにならない間は苦しいものです。

こういうのって、結局、

思うようにならないという方向に、

つい考えてしまうのが原因ですので、

例えば、苦がイヤー、楽がいいー、

という気持ちから、少し距離を取り、

「これぐらいの苦なら、まあ」とか

「平凡って、ありがたいねー」というように

苦や楽に対する執着から、

離れることができればできるほど、

「思うようにならない」という考えが、

それだけ、出にくくなります。

尾崎豊さんの十五の夜なら、

そして仲間たちは今夜

家出の計画をたてるーう♪

という感じでしょうか?

自由になれた気がした

心を自由に整えている人というのは、

苦を避けようという気持ちや、

楽よ来いという、極端から離れて、

中道という真ん中を歩く人であり、

また、

思うようにならない苦しみから解放され、

自由になった人ということです。

まあ、楽を求めたいという執着より、

苦しみを避けようとする執着の方が

手強いものですが、

文章にもあるように、

苦を避けようとすればするほど、

人間性も豊かにならず、また、苦しみは続き、

自由も遠くなっていくわけです。

まあ、苦を避けようとする生き方なんて、

誰にでもできるものですし、

そんな生き方を、十五の夜なら、

なんてちっぽけで なんて意味のない

なんて無力なー♪

という感じに、なりますかね。

とかなんとか言っている拙者も、

まだまだ、いろいろ執着があり、

何かが起きれば反応してしまい、

思うようにならない!と、

窮屈に、そして不自由に生きており、

苦から逃げたいとか、楽よ来いという極端から

少しでも離れようと思いながら、

精進しているのでござるが、

そんな拙者を、十五の夜で例えると、

落書きのー 教科書とー

外ばかり見てる俺♪

という感じでござるなー。

尾崎豊 十五の夜

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