ある ある ある 中村久子さん

さわやかな 秋の朝

「タオル 取ってちょうだい」

「おーい」と答える

良人(おっと)がある

「ハーイ」という

娘がおる

歯をみがく 義歯の取り外し

かおを洗う

短いけれど 指のない

まるい つよい手が

何でもしてくれる

断端に骨のない やわらかい腕もある

何でもしてくれる 短い手もある

ある ある ある

みんなある

さわやかな 秋の朝

あるあるある 中村久子さん

日本のヘレン・ケラー

この詩は、

日本のヘレン・ケラーと言われた

中村久子さんの詩です。

「ない、ない、ない」と言う人や

「欲しい、欲しい」と言う人は、

たくさんいますねー。(お主もな)

「ない、ない、ない」や

「欲しい、欲しい」の反対は

「ある、ある」です。

「ある、ある」といえば、

あるある探検隊ですが、

(レギュラーのお二人ね)

「ある、ある、ある」と言う人と

「ない、ない、ない」と言う人

どちらが幸せな人生を、

送っているのでしょうかー?

不自由からの脱却

手と足がない体であっても、

口に針を加え、裁縫をして、

日常の裁縫だけではなく、

人形を作るまでに技術を高めたり、

己の食事の世話で、

人の手を煩わすことはしたくないと、

食事が入った皿に顔を近づけ、

なんとか一人で食事をすることで、

迷惑をかけないようにしようとするなど、

中村久子さんは、己の境遇に甘えずに、

生きようとされた強い方です。

まあ、これだけでも本当に

凄いことなのですが・・・。

ていうより、拙者ならもう、

「欲しい、欲しい!助けて、助けて!」

と、醜態をさらし、

助けてもらっても「当たり前」

助けてもらえなければ、

「あの人は冷たい!ひどい人!」

と、言い放つという生き方に、

疑問すら全く持たないどころか、

「こんな状態の体だから当たり前だ!」と、

やってもらって当然という、

感謝のかけらもない生き方をしたはずです。

己で書きながら、

ちと気分が悪くなってきましたが、

読まれているみなさんは大丈夫でしょうか?

さらなる境涯を求めて

拙者なら「いやいや探検隊」に、

すぐ入隊するところであっても、

中村久子さんは、まだ上を目指します。

人の手を煩わすことはしたくないと、

食事が入った皿に顔を近づけ、

食事をする中村さんを見たある方から、

「そういう食べ方は犬猫と同じ」

と、言われたのをきっかけに・・・、

ていうか、拙者であれば

「ひどい人探検隊」にすぐに入隊したり、

「食事がトラウマになりました探検隊」

に、即日入隊してしまうところですが、

「そうだ、私は人間だ!」と、

さらに食事方法を工夫をされ、

箸を使って一人で食事をされたり、

また、

「恩恵にすがって生きれば、甘えから抜け出せない。一人で生きていかなければ」

と、生涯、国からの保障は受けずに生きた、

と、言うことですが・・・。

もう、拙者みたいな者とは、

見ている境涯が違いすぎるわけです。

求道の先にあるもの

これだけでも頭が下がることですし、

本当に強い方だと思いますが、

本当の凄さはこれ以降にあります。

(まだあるんかい)

生きるために選んだとはいえ、

「だるま娘」という名で、

芸人として生きることはつらいことでした。

そんな見世物小屋を出て、

今までの生き方を話すことで、

全国的に名前が知られるようになり、

なんとか生計を立て始めた中村さんでしたが、

だんだんとそんな自分に、

嫌気がさすようになったそうです。

今までの人生を振り返ると、

過酷な環境で生き抜いてきた自分には

誇りも自信もあり、

そのことを伝えていくことで、

聞いている方に、勇気を与えたり、

喜んでもらえるのも事実ですが、

「慢心が頭を上げて自己の壁になった」

と、ご自身がおっしゃっているように、

今までの精進や精神力が逆に仇となり、

かえって慢心してしまった。

ということです。

こうなると、ちょっともう

すげーなー。としか言いようがありません。

拙者のような者であれば、

この時点で天狗になり、

「拙者ってすごいでしょ、すごいでしょ。」

という感じで、高慢という階段を、

登り切ってしまうところですが、

中村さんは、そうはならなかった。

言ってみれば、凡人には一生かかっても、

見ることのできない境涯を、

たくさん見ているわけですが、

簡単に言うと、

あるある探検隊になったということです。

(なにが?)

傲慢と感謝

「ない」と感じるということは、

感謝の気持ちがなく、

傲慢であるということです。

確かに、己のこれまでの人生に対して、

誇りが持てるということは、

大変素晴らしいことであり、

また、大変素晴らしい人生に、

間違いはないのですが、

その自信や誇りが強すぎると、

かえって、その自身と誇りによって、

物事が見えなくなってしまうものです。

世の中には、中村久子さんと同じく、

己の人生を話のネタにして、本を書いたり、

講演などでお金を稼いでいる人もいます。

確かに賞賛されるべき人生でしょうし、

そういう人生を送ってきたことだけでも、

大変素晴らしいことなのですが、

多くは、それがゴールになっていて、

中村久子さんのように、

その場所にいる己に疑問を持ち、

そこから抜け出そうと思う人など、

ほとんどいないのではないでしょうか。

失礼な言い方をすれば、慢心した者の話は、

講演ではなくただの自慢話ですからねー。

あるがままと感謝

確かに、

「己の精進や精神力があってこそ」

ということに間違いはないのですが、

今ここにいるのは、それだけが理由ではなく、

まわりの方々のおかげさまや、

いろんなご縁がなければ、

この境涯に立つことはなかったわけです。

「業のある間、見世物芸人でいいじゃないか」

「止めろといわれたら、その時にやめればいい」

と、あるがままを受け入れる決心がついたとき、

中村さんの心から、慢心が消えたそうです。

自分で生きとるのではない、

生かして下さる方々があるおかげさま。

そのおかげさまで、私自身こうして

生かしていただいているわけでございます。

という言葉を、晩年に残されています。

こうして考えてみると、

拙者も中村さんも同じ人間ですが、

あるがままを丸ごと、全てを受け入れ、

その上で、感謝に生きていくということが、

まだまだ拙者などには足りておらぬと、

心から感じるのでござる。

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