愛と憎しみは一体という考え方

愛と憎しみ

俗に「愛と憎しみは表裏一体」とか、

「愛と憎しみは紙一重」などと、

言ったりします。

まあ、拙者はちとおかしいので、

この言葉を聞くたびに、面白いなー。

と、思ったりするんです。

ていうかー、

俺様に聞け!という顔をした、

いい年をした講演家や、セミナー講師が、

マジメな顔をして、

「愛と憎しみは表裏一体」とかいうと、

「この、詐・欺・師♡」

と、ツッコミたくなります。

「いやー、その気持ちわかるわー」

という人は、あまりいないかもしれませんが、

もし、いるのなら、

「拙者もお主も、うつけ者でござるなー」

と、言わせていただきたいと思います。

(失礼な)

自我の声

ふつう人が聞いているのは

魂の声と言いながらも

たいていは自我の欲求でしょう。

自我の欲求しか

はっきりとは聞こえてこないと思います。

吟じます!

(なんだよいきなり)

という言葉が、池田晶子さんの著書、

「人生のほんとう」にありますがーぁー、

まさにその通りだと思いませんかーぁー?

・・・・

あると思います!

(天津木村さんかよ!)

ありのままという言葉は、

言葉の意味としては、さほど、

難解な言葉ではありませんが、

実はありのままって、

思っているほど簡単ではありません。

まあ、これは長くなるので横に置きますが、

池田さんの言葉を説明すると、

「私は○○をしたいのー」

「そんな声が心から聞こえてくるのー」

って、おっしゃる人がいますけど、

それって、ただの欲望じゃないですか?

ってことです。

日々己と向き合いながら生きている人が、

この言葉を言うと、

「魂の声だと思います!」と言えますが、

日々欲望を満たすことは考えても、

己とは向き合おうとぜず、

嫌なことはなるべく避けようと生き、

何かあれば他人の責任にするような人が、

この言葉を使っても、

「そりゃただの、あなたの欲望でしょう」

ということに・・・、

なると思います!

言葉とは、人間にとって、

とても大事なものですが、その反面、

誰にでも簡単に使えるもの。

という側面も、あるわけですから、

ようするに、

「どんな言葉を使ったか?」よりも、

その言葉を「誰が使ったか?」が、

問題じゃない?と思うわけですねー。

愛という言葉

「その言葉を、誰が使ったか?」

ということを考えてみると、

例えば「愛」という同じ言葉でも、

使う人の人格によって、

全く意味が違ってきますねー。

例えば、

(君の顔を)愛しています。

(働いてる会社の将来性を)愛しています。

(君のスタイルを)愛しています。

(君の財産を)愛しています。

(一人がさみしいから)愛しています。

(君の名声を)愛しています・・・。

という感じで、

同じ「愛しています」であっても、

前につく()の言葉によってー、

その人が何を愛していてぇー、

何を満たそうとしているかがぁー・・・、

わかると思います!

ま、ここに挙げた例は、すべて、

「己の欲望を愛している」

ということであり、

「己の欲望を満たすことを愛している」

ということがわかると思いますが、

こう、はっきりと言ってしまうと、

身もふたもないかもしれませんが、

愛という言葉で欲望をごまかしてるだけでしょ。

ということであり、

それ、愛じゃなくて、エゴでしょ。

ということです。

欲と本当の自分

日々、己と向き合いながら、

生きている人ならいざしらず、

そのように生きてない、

多くの人の自己という本質は、

普段は我欲というエゴに覆われていて、

奥に隠れて見えないものです。

ま、人間ですから欲はあるものだし、

仕方がないところもあるわけですし、

拙者もそうでござるが、

(そうでござるなー)

エゴという欲に生き方を支配されると、

やがて「欲を満たすことが人生だ!」

という価値観になり、

己だけの欲を満たすことが「幸せ」とか、

己だけの欲を満たせる人は「成功者」

というように、

幸せや成功者の誤った価値観まで、

作られてしまうわけです。

そんなことになってしまうと・・・、

はーい、いいですかー。

幸せになろうと思わないでください。

幸せをつかみにいって、

幸せをつかんだ人は一人もいません。

幸せとは感じるものです。

と、金八先生に叱られてしまうわけです。

まー、拙者もそのうちのひとりですけど。

(お主は3年B組じゃなくて、寺子屋)

酒は飲んでものまれるな。と同じで、

欲はあっても支配までされるな。

ということですが、

今までであれば、

「なんだかイケそうな気がするー」

と、思って我慢していたとしても、

「まあ、イケなくても問題ないし」

と、欲と距離をうまく取れれば、

それだけ、自由度が増えるし、

「こんな我慢はしませんよ」という感じで、

我欲ではなく「己」という本当の自己が、

チョイチョイ顔を出せるように

なるわけですねー。

愛と憎しみは、全く別のもの

てな感じで考えてみると、

少なくとも愛は、

エゴとうまくつきあい始めたあたりから、

見えてくるもの。

と、言えるのではないでしょうか。

例えば、己の危険を顧みず、

誰かを危険から助けようとするのは、

己の生存欲すらも横に置いた行動ですが、

そんなエゴを横に置いた人が、

相手や他人のことを考えると愛になり、

エゴという我欲に支配されたまま、

相手や他人のことを考えると、

それはただの、わがままな人であり、

未熟な人ということになるわけです。

愛はただ、愛であるわけですから、

「○○でなければ」みたいな条件など、

必要ないもので、そうなると、

「○○だから愛してる」というのは、

条件付きの愛ということになるからー、

ただの欲望な気がするーぅー・・・。

あると思います!

というわけで、

エゴを愛だと勘違いした人が、

己の欲が思うように満たされないと、

それは当然、憎しみに変わるでしょうねー。

ということになれば、

「愛と憎しみって一体よね」と、

感じてしまうかもねー。

ということになるので、

ちと、おかしい拙者はーぁー、

いい年した講演家やセミナー講師がーぁー、

マジメな顔してぇーぇー、

「愛と憎しみは表裏一体」とかいうとーぉー、

「貪欲と憎しみが一体でしょ♡」と、

ツッコミたくなるでござるよーー

あると思います!

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする