悟りの境地と欲望

仏教でいう悟りの境地にいたるには、

社会生活の中で身についた余計なものを

全てそぎ落とす必要があるといわれる。

本来は厳しい修行を経て

そこに達するわけだが、

翔子は最初から

余計なものがくっついてないから、

そぎ落とすものがない。

生まれたときからずっと、

悟りの境地、仏菩薩の境涯にいる

といっていいかもしれない。

いま考えると、知的障がい者ということで、

一般的な教育システムに

巻き込まれることなく、

その枠の外で自由にのびのび育ってきた。

そして、学校を卒業したあとも、

社会に出て組織に属することなく、

私の傍らで書に専念して過ごしてきた。

だからこそ、生まれたままの無垢の魂が

奇跡的に保たれたのではないか

と考えている。

私は翔子がダウン症であることを、

いまは障がいと思っていない。

自然界の全てのものに分け隔てなく、

そして惜しみなく深いやさしさを向ける

魂の清らかさは、

かけがえのない個性、

大いなるプラスの才能である。

IQ(知能指数)は低くても、

魂のレベルは最上級だと思っている。

海のうた 山のこえ 金澤泰子さん 金澤翔子さん著

コントロールする人

現代社会は、

コントロールしてやろう社会です。

(なんだそれ)

コントロールしてやろうという意志が強くて、

またそれが可能な人ほど、あらゆる場面で

「成功した人♡」といわれます。

まあ、当然なんですけど、

コントロールするのは自分以外です。

己をコントロールできる人は

単純に立派な人ということですからねー。

いうなれば、

コントロールしてやろう。ニヤニヤ。

ということは、

あれこれ考えているということです。

何も考えずに「ぼーっ」としてると、

相手をコントロールするのは難しい。

もし「ぼーっ」としてても、

相手をコントロールできるなら・・・、

お主、拙者と全国行脚をせぬか?

共に儲けようぞー。ニヤニヤ。

(曲者でござる)

悟りの境涯に至るために、

社会生活の中で身についた余計なものを

そぎ落とそうとするのではなく、

むしろ、次の手、次の手と考え、

増やしていく。

そんな人たちがいる社会。

それが現代社会ということです。

(まあ、昔もそうなんでしょうけど)

コントロールしない人

全てのものに分け隔てなくやさしさを向ける。

というのは、文章にしてみると簡単ですが、

こりゃあ、難しいものです。

コントロールしてやろう社会では、

コントロールできる人が優秀で、

コントロールされる人は、

「クスクス」とバカにされます。

(コントロール、コントロールうるさい)

そんな状態で、

全てのものに分け隔てなくやさしさを向ける。

というのは暴挙に等しいわけですねー。

少なくとも、

「全てのものに分け隔てない優しさを」

と、お互いが考えられる社会に、

最近は年も取ったし住みたいなー。と、

拙者など思うのですが(年は関係ない)

「全てのものに分け隔てない優しさを」

と、行動すれば、

全てがそうではありませんが、

利用されたり、裏切られたりして・・・。

しまいには、

「強くて清らかな生活に少し疲れたようー」

と、渡辺美里さんの「悲しいね」を、

口ずさむようになるわけです。

コントロールする人が向かう場所

まあ「コントロールして野郎」という

野郎が行きつく終着駅は(なんか演歌ちっく)

襟裳岬ではなく、たそがれの銀座でもなく、

俺ら東京さ行ぐだでもなく、

「俺さえよければいいんだ」という駅です。

もうこうなったら、終着駅ではなくて、

執着駅ですねー。

(なに、うまいこと言ってやがる)

「なんで、うまくいかないの!」

と、己の欲望に執着し、

「思うようになればいいのに!」

と、考えている人がいますが、

状況を思うようにしたいということは、

「思うようにコントロールしたい」

ということですねー。

それを言いかえてみると、

「俺ら東京さ行ぐだ」ではなく、

「俺さえよければいいんだ」

ということになるわけです。

えー、少し説明が長くなりましたが、

ゆえにー、行きつく先は「執着駅」

ということになるわけです。

(気はすんだか?)

ということは、

「全てのものに分け隔てない優しさを」

という世界を目指すには、

道徳の時間に、

「これがいいんですよー、いいんですよー」

と、とにかく叩き込む・・。ではなく、

執着とうまく付き合うことで、

行きつく場所を執着駅にしないということです。

結局、それぞれが、それぞれの執着を、

握りしめて離そうとしないから、

「俺のだ!」「いや私の!」となり、

「よーし、あいつをコントロールしてやる!」

ということになるわけですねー。

「芸のためならー、女房も泣かすー」

というのは、まあ、

「ワイは猿や、プロゴルファー猿や!」

ではなく、

「わいはアホや、酒も煽るし女も泣かす」

と、自分を見つめているし、

最後は笑う二人に、浪花の春もくるので、

ええ話やなー。ということですが、

己だけの欲望を、第一にして生きていくため、

あれこれ、いろいろ考えるような

「コントロールする人」が、増えると、

やがて「コントロールしてやろう社会」

に、なっていくわけです。

そういった社会ではなく、

コントロールしない人が住む社会。

それが「お悟り」の境涯ですが、

拙者もまだまだ精進が足りず、

「生まれてこのかた見だごとねえ」

で、ござるよー。