知識と教養の違い

栄西が建仁寺滞在中のこと、

ある木枯らしの吹きすさぶ冬の日、

一人の浪人が飢えと寒さに震えながら訪れ、

「御覧のとおり、私が永の病気のために、妻や子に食べさせるものがなく、一家は餓死せんばかりです。どうぞ、お慈悲をもって、お助けくだされ」

と哀願した。

栄西は同情の涙を浮かべたものの、

一衣一鉢、人の信施を受けて

枯淡な生活をしている身なので、

さて施すべき何物もない。

しばらく思案していたが、

ふと何を思ったか、栄西は本堂へ入ると、

正面に安置してある薬師如来像から

金箔の光背を折り取ってきて

「これを売って米でも買うがよい。なんとか一時しのぎにはなるだろう」

と言って与え、ねんごろに慰めて帰した。

弟子たちが驚きあきれて、

「もったいない。なんという無茶を・・・」

となじると、栄西は、

「何が無茶だ。お前たちは丹霞禅師が木仏を焼いたという話をどう見ている。わしは仏像を焼きも壊しもせぬぞ。ただ仏の御心を行うたまでじゃ。仏心とは大慈悲心是れなりと経にも説かれている。今のような哀れな衆生を、もし仏が見そなわさば、御自らの手を折り脚を砕いてでも、お救いになるであろうぞ。光背ぐらい何ぞや」

と教え示した、という話が伝えられている。

禅の人 西部文浄さん著

ありがたいものは使ってナンボ

ありがたいものは、

置いておくだけではなく、

また、ありがたい教えも、

頭の中に置いておくだけではなく、

「何かの助けに使ってこそ」なのでしょうが

なかなか拙者のような凡夫には、

使うのは難しいものです。

ですが役立てるには、そのありがたいものを

己の一部にしておかなければ、

反射的には出てこないものですねー。

あることすら忘れて・・

先日もあることに困って、

わざわざ道具を買いに行きましたが、

「買わなくてもありましたよ、お父さん」

みたいなことがありました。

せっかく持っていても、有ることを忘れている。

それでは意味がありませんが、

とりあえず、マスオさんなら、

「それがサザエのいいところだけどねー」

と、慰めてくれます。

まあ、そんなことはさておき、

持っているありがたいものも同じで

ここという時に使ってナンボじゃね?

と思うのですが、

そんなとき、マスオさんなら、

「君の好きなようにやればいいよー」

と、言ってくれそうです。

(今日はマスオさんのようです)

うーん・・。

これでは話が進まないような?

(知らんがな)

八正道

仏教では、彼岸に至るため、

迷いや煩悩の川を渡っていくわけですが、

その川を渡る際にいかだを使うわけです。

いかだとは、八正道(はっしょうどう)

という、八種類の実践のことですが、

渡った後は、そのいかだも捨てなさい。

と言われます。

渡るために必要だった実践を捨てる。

とは、言いかえてみると、

試験に合格したんだから、

合格するために学んだ知識を、

すべて忘れなさい。みたいなもので、

なんのこっちゃ?

と、思う方もいるかもしれませんが

ようするに、涅槃に渡ったのであれば、

もうその実践は、

あなたの一部になっているでしょう。

であれば、今後はいかだに頼ることはない。

ということであり、ようするに、

いかだに執着するなということです。

難しくいうと「空性」ですが、

ようするに、どんどん捨て去って、

身軽に自由に向かっていくわけです。

ですので、実践を捨てるというより、

反射的にできるなら、八正道、八正道って

こだわらなくてもいいんじゃね?

ということであり、

例えていうと、早起きの習慣が付けば、

目覚まし時計は捨てなさい。

みたいなもので、

実践を習慣にしたのなら、そのこだわりが、

かえって、空性に近づく妨げになるよー。

ということです。

まあ、一般的には、

「俺様が教えたことによって、実績をあげることができたんだから、語り継げ!」

という人が、多いかもしれませんが、

いってみれば、

「役に立った?あ、そう。じゃあ、忘れて」

という境涯なんですねー。

知識と教養

でーすーがー、

まだ川を渡っていない拙者には

まだまだ、いかだが必要なわけです。

にもかかわらず、

「買わなくてもありましたよ、お父さん」

と、叱られると、

「空性でござる」などと、

渡ってもないあっしが屁理屈を言うので、

「バッカモーン」と、波平さんから叱られます。

そんなとき、マスオさんなら

「サザエごめんよー、許してくれよー」

と、謝るかもしれませんねえ。

(しれませんねえ。じゃないし)

教養とは、

知識が積み重なってできるものではなく、

教養とは行動だと拙者は思ってます。

ていうかー、

ただ知識が積み重なって、教養になるなら、

知識量では機械に勝てませんから、

「パソコン(AI)だけが教養人」みたいに、

なってしまいますますよねー。

そういえば最近、

「弁護士がタクシーの車内で大暴れ」

というニュースがありましたが、

教養とは行動。

ようするに、己の生きざまであり、

世間に対する態度や姿勢だと、

拙者は思っているわけですねー。

拙者のように、空性ではなく

単純に忘れっぽい。

「もしや、地方のきざしが出てきたか!」

ということはさておき

(地方じゃなくて、痴呆ね)

まあ、いろいろ書きましたが、

知識を己の一部にするため、

「しっかり、覚えていこうぜー。」

ということですねー。

(道具も漢字も覚えようね、拙者!)

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