ユーモアとは哀愁

マーク・トウェィンといえば、

アメリカ文学のゴットファーザー

のような存在です。

彼の作品はユーモアと明るさに

満ちあふれたものでした。

そこには、今のアメリカが失いつつある、

ひたむきなパイオニア精神が脈打っています。

彼の言葉に、こういうのがあるそうです。

「ユーモアの源泉は、哀愁である」

哀愁、などという言葉も今はすでに

忘れさられた言葉となりました。

「哀愁波止場」とかいう歌が

ひとびとの心をとらえたのも、

すでに何十年も昔のことです。

しかし、マーク・トウェィンは

言い切っています。

「真のユーモアの源泉は哀愁である」と。

この言葉は、

私たちにさまざまなことを考えさせます。

私たちが本当に明るく生きるためには、

暗さを直視する勇気を

持たなければならないのではないか。

本当のよろこびというものを知る人間は、

深く悲しむことを知っている

人間なのではないか。

涙は決して

低次元のメロドラマの産物ではなく、

人間は泣くということにおいて、

涙を流すということにおいて、

まさに人間らしい存在で

ありうるのではなかろうか。

五木寛之さん著 生きるヒント

ユーモアの源泉は哀愁である

光を際立たせるものは、

闇であり影であり、

闇や影を際立たせるものは光ですねー。

合コンで例えると、

自分を引き立ててくれそうな人を、

わざとメンバーに誘う、

「モテる大作戦!」みたいな感じでしょうかー。

(プロポーズ大作戦!みたいにいうな)

(つーか、嫌な作戦だ)

でーすーがー、

光がなければ、影はできませんし、

影があるから、光の存在を感じるわけでしょう。

なんだか、持っているイメージや都合で、

「光ってステキだけど、闇や影はイヤン」

と、区別、判断していますが、

本当はゴットファーザーが言うように、

そもそもセットであり、

実は同じものではないでしょうか?

互いに影響しあう

ドン・マーク・トウェィンがいう

ユーモアと哀愁。

(ドン・コルレオーネみたいにいうな)

(いや、言っているのは五木寛之さん)

哀愁とは、「さみしく悲しい」

みたいな意味ですから、

まさにユーモアと反対であるわけですが、

ユーモアの根底には哀愁があり、

哀愁の根底にはユーモアがあるわけです。

ユーモアと哀愁はつながっていて、

互いに影響しあい、ふたつでひとつ。

哀愁を知らない人が感じるユーモアと、

哀愁を感じたことがある人が、感じるユーモア。

どちらが深くユーモアを感じることができるか、

答えは簡単ですよねー。

拙者も、江戸に上京した頃は、

お金が無くてひもじい思いをしましたが、

そのおかげで、食に対する感謝は増えました。

無意識に「当たり前」みたいな感覚で、

食べていた食事が、

「そうじゃないぞー」と感じて、

食べれるようになったわけですから、

そりゃあねー。ということですが、

そのように考えてみると、

やはり、ゴットファーザーが説くように、

さみしさや悲しさを知れば知るほど、

ユーモアも知ることができるのかー。

ということだと思うわけです。

ふたつでひとつ

まあ、言うなれば、

フィーリングカップル5対5!

みたいなもので、(なにが?)

「俺は男だ!」なんて言ってても、

女性がいなければ、男はいませんし、

「男だからどうした?」

という話になるわけです。

様々なことが、互いに影響を与え合い、

この世はバランスが取れている。

こんな感じで考えてみると、

「この世とは、非常に微妙な世界」

ということが、見えてくるものです。

「此れあれば彼あり、此れなければ彼なし」

とは、お釈迦さまの説かれた縁起ですが、

これがなければ、彼もなく、

これがあるから、彼もあるわけですから、

やっぱりセットなんですよねー。

「神の御前に身を委ねたる、○○の願いを叶えたまえー」

と、お相手が出てくるのも、

いろんな人の、おかげ様ですがー、

(これ、知ってます?)

あちらがあって、こちらがあり、

苦労があるから、幸せを噛みしめれる。

と、考えれば、

経験が人間の深みや感度を、

増やしてくれるわけですから、

「光ってステキだけど、闇や影はイヤン」

ではなくて、むしろ、

「いいことじゃね?」と、思うわけです。