人は人 吾はわれなり

人は人。

人は人 吾は吾なり

山の奥に 棲みてこそ知れ 世の浮沈

高杉晋作さんが詠んだ歌ということです。

人は人、拙者は拙者。

人の輪の中から出ようとせず、

多くの人に囲まれていると、

だんだんと大衆に同化してしまい、

世の情勢が見えなくなってしまうから、

「私ならどうするー?」というか、

「あなたなーらどうするー♪」

「あっさりいったら?」

などと、篠沢教授は言ってませんが、

(確かコーヒーにブライトのCM)

世の情勢を冷静に判断したいのなら、

あっさりというかー、

少し距離を取って観察しないといかんよー。

というような意味になるかと思います。

私は私

同じような始まりの歌で、

哲学者、西田幾太郎さんの

人は人 吾はわれ也

とにかくに吾行く道を吾は行なり

という歌があります。

ようするに、

自分の道を歩いて行こうぜっ!

ということですが、

どちらの歌も、人は人、

己は己ということですねー。

大通りをたくさんの人たちと歩いていると、

「なんだかあんしーん。」

かも知れませんが、

当然ながら、

そのたくさんの人が向かう場所と、

同じ場所にたどり着いてしまいます。

まあ、言ってみれば、

はらたいらさんに1000点みたいなもんです。

(竹下景子さんでも可)

山の奥か、人里か

その反面、大通りから出てみると

歩いている人は少なく、

どこに行くかは風まかせみたいなこともあり、

言ってみれば、倍率ドン、さらに倍。

篠沢教授に全部。みたいなもんで、

(ていうか、クイズダービーご存知ですか?)

ガッポリを期待する反面、

不安なところもあったりするわけですが、

まあ少なくとも、

みんなと一緒ではなくなるわけです。

結局、誰の人生を生きるのか?

そんなことはさておき、

大通りがいいとか、

よくないなどという話ではありません。

大きな道だろうが、小道だろうが、

歩くのはどちらでもいいのですが、

その道を己で選択したのか?

みんなが行くから決めたのか?

ようするに、

「最後は確実性の、はらたいらさんだろう」

って、みんな言うしー、

もしそうしなくて、

「なぜ、はらさんにいかなかったんだっ!」

と、後で言われてもイヤだしー。

という理由で、

全チームが「はらたいらさんに全部」

に、してしまうと、

正解でも不正解でも順位は変わらないし、

もし不正解だったら後悔しません?

ということが、言いたいわけです。

(ちょっと、何言ってるかわからない)

どのような道であろうと、

自分しか歩けない、己の道を歩くことと、

人に賞賛される人生を歩くために、

己を抑えて生きたり、

多数派に入って生きようとする道と、

「どちらが幸せか?」という質問の答えは、

幸せだという人を数えてみれば、

すぐにわかることですし、

また、大衆に流されながら生きて、

真実は見えるのか?ということについても、

大衆の意見が真実であるなら、

一般的な常識が、真実になるじゃーん。

じゃあみんな、もう知ってるじゃーん。

ということなってしまうわけですねー。

人は人、己は己で生きるからこそ、

大衆に感化されずに、

己を冷静に見つめることができる。

そういう見つめ方の先にしか、

己の真実は見えてこないと、

拙者は思うわけです・・・。

などといっておる拙者ですが、

世を見ようと、山の奥に入り過ぎてしまい、

もう、木と空ぐらいしか

見えなくなってしまったので、

(あっさりいきすぎ?)

そろそろ目薬を点さねばなりませんがー、

(目の問題ではない)

(ていうか、老化だろ?)

物事には限度があるだろーということで、

これはこれでダメでごさるなー。

(ロート せーいやーくー♪)

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