恐怖のあるところに智慧はなし

私たちが成長し、大人の男女になるとき、

みんなどうなるのでしょう。

君たちは、大きくなったら何をしようかと、

自分自身に問うたことがないですか。

君たちはたいてい結婚し、

自分がどこにいるのかも知らないうちに

母親や父親になるでしょう。

それから、仕事や台所に縛られて、

しだいにそこから衰えてゆくでしょう。

それが君の人生のすべてに

なってゆくのでしょうか。

この問題を自分自身に問うたことはないですか。

問うべきではないですか。

君の家が豊かなら、

すでにかなりの地位が

保証されているかもしれません。

お父さんが安楽な仕事を

与えてくれるかもしれません。

恵まれた結婚をするかもしれません。

しかし、そこでもやはり腐敗し、

衰弱するでしょう。わかるでしょうか。

生という、微妙なすべて、

そのとてつもない美しさ、

悲しみ、喜びのある大いなる広がりを

理解する助けとならないなら、

教育には確かに意味がありません。

君たちは学歴を得て、名前の後に肩書きを連ね、

とてもよい仕事に納まるかもしれません。

しかし、それからどうなるでしょう。

その過程で心が鈍り、疲れて愚かになるなら、

それが何になるのでしょう。

それで、若いうちに生とは

どういうものなのかを

探して見出さなくてはならないでしょう。

そして、これらすべての

問題の答えを見出そうとする

智慧を君に涵養(かんよう)することが、

教育の真の機能ではないのでしょうか。

智慧とは何か、知っていますか。

確かに智慧とは、

何が本当で何が真実なのかを

自分自身で発見しはじめるように、

恐怖なく公式なく、自由に考える能力です。

しかし、怯えているなら、

決して智慧は持てないでしょう。

精神的だろうと現世的だろうと、

どんな形の野心も不安と恐怖を生み出します。

そのために野心は、単純明快、率直で、

それゆえに智慧のある心をもたらす

助けにはなりません。

若いうちに恐怖のない環境に生きることは、

本当にとても重要でしょう。

私たちのほとんどは、

年をとるなかで怯えてゆきます。

生きることを恐れ、失業を恐れ、伝統を恐れ、

隣の人や妻や夫が何と言うかと恐れ、

死を恐れます。

私たちのほとんどは

何らかの形の恐怖を抱えています。

そして、恐怖のあるところに智慧はありません。

それで、私たちみんなが若いうちに、

恐怖がなく、むしろ自由の雰囲気のある

環境にいることはできないのでしょうか。

それは、ただ好きなことをするだけではなく、

生きることの過程全体を

理解するための自由です。

本当は生はとても美しく、

私たちがこのようにしてしまった

醜いものではないのです。

そして、その豊かさ、深さ、

とてつもない美しさは、

あらゆるものに対して――組織的な宗教、

伝統、今の腐った社会に対して反逆し、

人間として何が真実なのかを

自分で見出すときにだけ、堪能できるでしょう。

模倣するのではなく、発見する。

それが教育でしょう。

社会や親や先生の言うことに順応するのは

とても簡単です。

安全で楽な存在方法です。

しかし、それでは

生きていることにはなりません。

なぜなら、そこには

恐怖や腐敗や死があるからです。

生きるとは、

何が真実なのかを自分で見出すことなのです。

そして、これは自由があるときに、

内的に、君自身の中に絶えまない革命が

あるときにだけできるでしょう。

しかし、君たちはこういうことをするように

励ましてはもらわないでしょう。

質問しなさい、

神とは何かを自分で見出しなさい、

とは誰も教えてくれません。

なぜなら、もしも反逆することになったなら、

君は偽りであるすべてにとって

危険な者になるからです。

親も社会も君には安全に生きてほしいし、

君自身も安全に生きたいと思います。

安全に生きるとは、たいがいは模倣して、

したがって恐怖の中で生きることなのです。

確かに教育の機能とは、

一人一人が自由に恐怖なく

生きられるように助けることでしょう。

そして、恐怖のない雰囲気を生み出すには、

先生や教師のほうでも君たちのほうでも、

大いに考えることが必要です。

子供たちとの対話 J・クリシュナムルティ著

藤仲孝司先生訳

こどもの話?大人の話?

少し長文を引用させていただきました。

タイトルは「子供たちとの対話」ですが

肉体がまだ子供のときに、

「財産や名誉がたくさんある人がしあわせー」

と、動物生き方入門のように単純に教えられ、

「とにかくエサよ、エサを取りなさい」

と、追い回されてきた人であれば、

こういう考え方に向かってないわけですから、

いうなれば「子供たちとの対話」と同時に、

このことを知らない大人たちにも、

通用する話です。

ですがそれは、小さいときに

智慧を学ぶことができなかったわけですから、

仕方がないことですが、

智慧を持たずに人生を右往左往していると、

同じようにしか人を導けませんから、

智慧を持つ大人を増やすということは、

むしろ大事なことじゃなーい?と思うわけです。

恐怖を越える

この文章が伝えていることは、

ようするに、恐怖を越えろということです。

全ての根源は、恐怖だよ。ということを、

いろんな角度から、

説明していただいているわけです。

人間の中で最も大きな恐怖は、

そらあー、なんといっても「師」です。

(なんでなまる?)

そりゃあもう、拙者など毎日怒られ・・・

・・・

。。

じゃなくて「死」でしたねー。

師が怖くて・・、もとい、

死が怖くて生に執着するから、老いが気になる。

死が怖くて生に執着するから、病気が気になる。

死が怖くて生に執着するから、おかんが怖い。

ではなく、お金がなくなるのが怖い。

(まあ、おかんはだいたい怖いですけど)

だんだんとそんな感じになって、

しまいには、財産がたくさんあると安心。

体の健康には○○がよくない!などと、

書くとキリがありませんが、

無意識に死の恐怖を、

ゴマかそうとしているのではないでしょうか。

恐怖感をゴマかすために、

何かを手に入れようと生きると、

一瞬しか恐怖感を消すことができませんし、

得たとしても失ってしまうという恐怖感が、

次に湧きあがってきます。

まさに、いたちごっこ。

まさに、なんのこっちゃです。

ゴマかすことと智慧は全く違うし、

いつも、同じことの繰り返しで、

なんのこっちゃになるから、

「そういうの、智慧とはいわないよねー。」

ということになり、

文中にあるように、

「恐怖のあるところに智慧はありません」

ということになるわけです。

賢者となんちゃって賢者

最近はネットのおかげで、

誰でも簡単に発信者になれる時代です。

(おまえもな!)

まあ、いろんな人と情報がありますが、

それはさておき、(おまえもな!)

観察してみるといいのは、

その発信者が恐怖を越えているかどうか?

ということです。

美容でも健康でも生き方でも、

情報はなんでもいいのですが、

発信者が恐怖を越えていなければ、

恐怖を基礎にした発信になりますから、

その情報に従うと、恐怖に関係なく、

新しい何かを始めることになる。

ようするに、人生に対する閉塞感を、

なんとかするために情報を利用するのなら、

閉塞感は結局、恐怖につながっているので、

恐怖を越えた人の発信でなければ、

一時的にゴマかすことしかできず、

閉塞感をなんとかするところまで、

たどり着かない・・・。

ようするに・・・、からノッてきてしまい

たどり着かない・・・。まで、

早口で捲くし立ててしまいましたので、

もう、息切れがしてきましたが、

ということなんです。

(誰が頼んだ?)

自分の知らない情報を持っている人って

輝いて見えますよねー(そうか?)

新しい扉をあけてくれそうで、

なんだかドキドキ♡(ばかやろー)

そんなときこそ、偽物が、

本物の顔に見えたりするものですが、

(おまえもな!)

いつまでも、間違った情報に、

頼らないようにするためにも、

「全ての根源は、恐怖だよ」

ということを知っておくと、

発信者が、

「恐怖にきちんとアプローチしとるやんけー」

ということが見えてきたり、

また、逆に、

「恐怖心使って、うまいことしてますやん」

ということが、なぜ大阪弁なのか?はさておき、

見えてきますので、

「角野卓造じゃねーよ」ではなく、

「マイケル・ムーアじゃねーよ」でもなく、

「シュレックじゃねーよ」

で、あってもいけねえわけですが、

「偽物じゃねーよ」

と、情報を「見切る」ことが、

できるのではないでしょうかー?

(おまえは腹を切れ!)