理性と欲望、そして正義

理性なきところに正義なし

権力、富、名誉、健康。

これらは人を幸福にしてくれるかもしれない。

しかしそこに、理性という自制心、

つまり善の心がなければ、

ただの身勝手な悪となる。

超訳 カント

訳・監修 早間央さん 構成 北澤睦世さん

理性なきところに正義なし

「理性なきところに正義なし」

なんかかっこいい言葉ですけど、

本当にそうだと思いませんか?

正義とは正しい道、

道徳的な正しさとでもいいましょうか。

武士道でも正しい道のことを義といい

また、武士道で義とは背骨のようなものです。

理性がなければ正義ではない、ということは、

例えば、自分ではいいことをしたと思って、

「俺は正義マンだ!」と叫んでも、

「ダメよー、ダメダメ」と

朱美ちゃんに止められます。ということで

(そういえば、どこにいった?)

結果だけではなく過程(理性)も大事だよ。

ということになるわけです。

正義と利

武士道において正義に対立する言葉は、

「利」といっていいと思います。

利と義の違いは、

結果が同じものであっても、

結果に到達する過程の判断によって、

正義と利に分かれる。ということです。

簡単に言うと、

例えば「勝利した」という結果の場合だと、

汚い手を使って勝っても

ダメよー、ダメダメで、

フェアプレイで勝たなければいけないわけです。

ですので、

「理性なきところに正義なし」

ということになるわけでござるね。

利を追求すると

文中には、権力、富、名誉、健康

などという言葉が並んでいますが、

人間は誰でも、こういう結果を

手にしたいものでしょうし、

これらの結果を手にすることが、

素晴らしいことに間違いはないわけです。

名誉といえば、そうそう。

拙者のまわりでも、

最近多くの仲間が出世をしていきましてー。

例えば友人の山田などは官位がつき

山田三河守(みかわのかみ)などと、

なってしまいましたー。

拙者はいっこうに出世の音沙汰がなく、

かといって、このままでは悔しいので

いっそのこと勝手に官位をなのって、

自称「佐村河内守」にでもなろうかと

思っております。(やめなさい)

ていうか「佐村河内守」の守は、

そもそも「かみ」ではなく、

「まもる」と読みますし、

ひょっとすると全体で「にいがきたかし」

と、読んだりするのかもしれませんが

(だから、やめなさい)

まー、「にいがきたかし」って、

なんだか「やなせたかし」に似ているし、

それはそれでいいかなーと思いますしー

「佐村河内守」がそもそも偽物なんだから

まあいいかと思っていたりもします。

(本当にやめなさい)

ようするに、官位がいくら高くても、

こういう感じで官位を得れば「利」であり、

誰かを泣かせた結果、

権力、富、名誉、健康などを手にする

などとということは、文中にあるように

ただの身勝手な悪であるということです。

正義の道

なんだか、権力、富、名誉、健康などが

よくなーい。ということかと、

思ってしまいますが、

まったくそうではありません。

権力、富、名誉、健康に善悪などはなく

それらを手にする過程や動機に、

善悪があるのだーということですねー。

とにかく結果だ、結果を出せ。と、

阿呆のように言う人が

ビジネス、自己啓発などの世界にいたりします。

例えば、アスリートのように、理性を持ち、

己と向き合い、精進を積み重ねたその先が、

結果につながる業界なら、

結果を出せ、でも問題ありませんが、

理性がなくても結果を得れる業界にいる

理性ってなあに?みたいな、ちんちくりん達に

結果を出すテクニックを渡しても、

結局は、己とまわりを焼き尽くすだけです。

いってみれば、理性ある人格者とお金持ちは、

必ずしもリンクしないのに、

お金持ちになれとは言っても、

理性を磨けとは言えない、

幼稚なちんちくりんが多い世の中なんですねー。

ダメよ、ダメダメといわれて、

いいじゃないのぉーと返しても、

ダメよ、ダメダメとなればいいですが

(ていうか、どこにいった?)

「はい、いいですよー」

と、言われちゃった日にゃあ、

そこからが地獄の一丁目。

誰かを泣かせて手に入れるなどという、

業の深い行いは、返す刀で斬られるのが

オチというものですから、

耳元で、

「この世の地獄と、あの世の地獄、どちらも地獄にかわりなし」

と、市原悦子さんに

囁かれてしまうのではないですかねえ。

ま、いずれにしても、

「善男善女にゃ無縁の話で御座います」

ということですので、

善き方向へと向かっているみなさま方は、

ご安心、ご安心。

(「」の言葉は、必殺仕事人2013より)