自分を愛することと大切にすること

(あるとき尊師は)

サーヴァッティー市のジェータ林

「孤独な人々に食を給する長者」の園に

住しておられた。

その時コーサラ国王パセーナディは

王妃マッリカー夫人とともに

見事な宮殿の上にいた。

そこでコーサラ国王パセーナディは

マッリカー妃に言った。

「そなたには、自分よりももっと愛しい人が、だれかいるかね」と

「大王様。わたくしには、自分よりももっと愛しい人はおりません。あなたにとっても、ご自分よりももっと愛しい人がおられますか?」

「マッリカーよ。わたしにとっても、自分よりもさらに愛しい他の人は存在しない。」

そこでコーサラ国王パセーナディは

宮殿から下りて

尊師のおられるところにおもむいた。

近づいてから

尊師に挨拶して傍らに坐した。

傍らに坐したコーサラ国王パセーナディは

尊師に向って次のように言った。

「尊いお方さま。ここでわたしは、マッリカー妃とともに、みごとな宮殿の上にいて、マッリカー妃にこのように言いました」

「そなたは、自分よりももっと愛しい人が、 だれかいるかね?」と

そのように言われてマッリカー妃は、

わたくしにこの様に申しました。

「大王様。わたくしには、自分よりももっと愛しい人はおりません。あなたにとっても、ご自分よりももっと愛しい人がおられますか?」と

このように言われたので

わたくしはマッリカー妃に申しました。

「マッリカーよ。わたしにとっても、自分よりもさらに愛しい他の人は存在しない」と

そこで尊師はこのことを知って

その時、この詩を唱えられた。

「どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。それ故に、自己を愛する人は、他人を害してはならない」と

ブッダ 神々との対話 中村元さん訳

自分が大事

「自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。」

と、文末にありますが、

結局、人間というものは、

誰でもこういうものなんでしょうねー。

そもそも人間は神や仏ではありませんし、

それゆえに人間であるわけだし、

それゆえに人生やってるわけです。

でーすーがー。

いくら「自分がかわいいのさ」といっても、

「自分だけがかわいいのさ」というように

「だけ」がついてしまうと、

この世ってとこは、

抜き差しならねえ場所になっちまう。

と、思いませんか?

愛しさの種類

どうやら、己に対する愛とは、

自分がかわいいのさ。と、

自分「だけ」がかわいいのさ。という、

どうやら2種類ある。

ということのようですが、

それを、噛み砕いて言えば、

ようするに、自分だけが愛しい人と、

自分も愛しいけど、

同じぐらい他人も愛しいと思えるところまで、

愛しさを持てるようになった人。

この2種類ということですね。

そのように考えてみると、

行儀よくマジメなんてする必要はなく、

また、夜の校舎の窓ガラスも、

壊す必要はありませんが(尾崎さん?)

「自分だけが愛しい」を卒業すれば、

自分も愛しいけど、同じぐらい他人も愛しい。

に、向かっていくということです。

自分だけが愛しいを言いかえると

エゴとか、わがままとか、利己的。

と、いった感じでしょうか。

とりあえず「自己中」ということで

いいですかねー。

一方で、自分が愛しいを簡単に書くと、

人生に満足し、感謝している。→そんな日々を送れるのは自分だけの力じゃない。→いろんな人の力がありがたく、感謝。→そんないろんな人の力が集まった、おかげさまの自分を大事にしなければ。→自分が愛しい。

少なくとも、自己中という幼さから

卒業できた人がいる場所ですから、

このような流れになります。

己を大事だと心から思えるからこそ、

自分のことと同じように、

他人を大事にしたり、尊重することが、

できるということですねー。

「ていうかー、違いはいいんだけどー、卒業するには、どうしたらいいの?」

という声が、

どこからともなく聞こえてきそうですが、

自分が愛しい。の説明にあるように、

「人生に満足し、感謝している。」

が、スタートですから、

卒業には感謝する心が必要ですねー。

まあ、ここの読者さんには、

これ以上の詳しい説明は不要だと思いますが、

簡単に言えば、

モノの味方を自分サイドからではなく

相手サイドから見てみるということですね。

相手とのコミュニケーションって?

人間というものは誰でもそうですが、

普段の生活の中で、

自分とやってるコミュニケーション。

ようするに、

心の中で自分と会話している状態で、

他人ともコミュニケーションしようとするもの

だと思いませんか?

特にとっさの時に出てくる対応って、

人知れず、いつも心の中で、

考えてることではないでしょうか?

例えば、道を歩いているおじさん・・。

仮にこの方をAさんとしておきましょうかー。

(ここからは稲川淳二さん風にお読みください)

このAさん、近所のおじさんで、

よくスカートをはいているんですが、

おかしいなー、おかしいなー、と思いながら、

そのAさんに、心の中でいつも

「ちゃうやろー、ちゃうやろー」と、

ツッコミを入れていると、

(内容は深く考えなくて結構です)

スコットランドのキルト衣装なんかを見ると、

反射的に「ちゃうやろー、ちゃうやろー」と、

言うでしょうー。思うでしょうー。

変だなー、変だなー、

やだなー、こわいなー・・・。

・・・

・・

稲川淳二さんはさておき、

コミュニケーションって、少なくとも・・、

特にとっさの時はそうでしょうが、

頭に浮かんでこない言葉や、対応なんかは、

やりたくてもできないものです。

例えば、日々の中でよく起きる、

自分では「よかれ」と思ってやったことが、

「大きなお世話」になったりするアレも、

お互いが普段考えていることのズレが、

同じ出来事を「よかれ」と「大きなお世話」に

見せているわけです。

ということは、コミュニケーション力って、

普段の思考でつくられているわけで、

相手に話しかけているように見えて、

実は自分に話かけているようなものかも、

しれませんねー。

やだなー、こわいなー。(またでた)

てな感じで考えると、

自分とのコミュニケーションに愛がなければ、

他人にも愛で関わることができず、

心の中で、いつも自分を追い込んだり、

傷つけているのなら、

追い込んだり、傷つけてしまう言葉や態度が、

反射的に頭に浮かんでしまうわけですから、

自分とのコミュニケーションって大事だよねー

とか、

自分を愛そうとすればするほど、

他人も愛することができるってことさねー

というわけですが、

きちんと頭の中に、

置いておかなくてはならないのは、

他人も愛することができるようになっても、

結局、己を愛する気持ちを超えれないのが、

人間というものであり、それが拙者たち。

ということですね。

やだなー、こわいなー。