大人と小人

ダウン症の子は、IQで判断すると

障がい者に分類されてしまう。

しかし、IQが低くても、

生きる上でほとんど問題はない。

むしろ、IQが低いからこそ、

いつまでも無邪気で明るく、

やさしい子でいられるのだろう。

IQが低いと、何が問題なのか。

それは現代社会のニーズに

合わないということだ。

現代社会は、いかに効率よくするか

ということばかり考えている。

より速く、より優秀で、

より上を目指すことが求められる。

赤ちゃんでさえ例外ではない。

平均的な日数よりも早く立ち上がり、

早く歩きはじめ、早くおむつもとれて、

誰より早く話しはじめる子が褒められる。

そして、そうでない子を持つ親は、

やたら不安になる。

就学後はなおさらだ。

よりIQが高く、よりいい成績を取り、

全てを要領よくこなして、いい大学、

いい職業に就くことを親や教師は願う。

それが「いい人間」と評価される。

もちろん、そうした生き方もあるだろう。

おそらく私も、翔子がダウン症でなかったら、

厳しい教育ママになって

翔子のお尻を叩いていたと思う。

一方で、そうではない生き方が

あってもいいはずだ。

人間は一人ひとり

さまざまな特性を持っている。

それを

十把一絡げ(じっぱひとからげ)にして、

みな同じ方向に誘導するのは無理がある。

みんなが一番になれるわけではないし、

最初から一番を目指そうと

考えない人間もいる。

効率と関係なく生きている

ダウン症の子どもたちがそうだ。

翔子は昔から喜んでビリを引き受けてきた。

そもそも、翔子は

ビリが悪いことだと思っていないので、

最下位から抜け出そうという気がない。

自分はそのままでいい。

それで喜ぶ人がいるなら、

そっちのほうがよほど嬉しいと考える。

決して無理をして

そうしているわけではなく、

それが翔子の正真の喜びなのである。

運動会の徒競走でも、

並走していたお友だちが転んだとき、

自分が走るのをやめて、

その子を助けに行った。

自分のことだけ考えて

ゴールに向かえばビリを免れるのに、

翔子は迷わず、転倒した子を助けに行った。

これが翔子の生き方なのである。

ビリを笑顔で引き受ける人間がいると、

その場がみんなやさしくなる。

そういってくれたのは小学校の先生だった。

そんな笑顔の引き受け役が

いなくなったとき、

社会は恐ろしく殺伐としてしまう気がする。

海のうた山のこえ

金澤泰子さん、金澤翔子さん著

ビリか?それとも一番か?

ビリを笑顔で引き受けようとする人より、

いかに自分の順位を上げようかと

考えている人が多い世の中ですよねえ。

というより、

「順位をどうやって上げようか?」と

考えているのなら、

己の問題にしているので、問題ないのですが、

「どうやって出し抜いてやろうか?」と

考えるようになってしまうと、

見ているものは己ではなく他人ですから、

人生はどんどん荒んでいくでしょうねえー。

(ひとごと)

そんな中、もし、

「ビリを笑顔で引き受けようとする人」が

現れてくるのであれば、

「順位をどうやって上げようか?」と

己の問題にしている人たちからでしょう。

なぜなら、そういう人たちは、

日々、己を見つめているので、

少しずつでも精進するでしょうから、

「どうやって出し抜いてやろうか?」

という人たちに比べて、

器量が大きいのではないでしょうか。

自分が大好きと、自分「だけ」が大好き

どうして、自分の順位を上げることばかり、

考えてしまうのかといえば、

そりゃあ「得したい」とか、

「いい目にあいたい」ということでしょうが、

それはようするに欲ということであり、

我欲に支配され、使われているからです。

欲はあってもいいのですが、

「得したい」とか

「いい目にあいたい」などという

「自分」ばかりではなく、

欲という言葉の前に

「みんなの」という言葉を置くことが

できるといいよなー。と、思うわけです。

そのほうが、

「自分だけが好き♡」が少しづつ減って

「本当に自分が好き」という気持ちが、

増えていくと思いませんか?

「自分だけがいい」っていうのは、

その時だけはいいでしょうが、

「みんなの」と考えられる方が、

「自分が好き」と、心から胸を張れるものですよねー。

現代の大人が目指しているもの

しかし!しかしですよ、みなさん!

(何がはじまった?)

「現代社会は、いかに効率よくするかということばかり考えている。より速く、より優秀で、より上を目指すことが求められる。」

と、文中にありますが、

これを改めて読みかえしてみると、

人間は優秀な機械を目指して生きている。

というような印象を受けます。

優秀な機械のような人が評価されるなら、

いっそのこと、全部機械でやりゃあいいじゃん。

と、ひねくれ者のあっしは思うんですよねー。

まあ実際に、レジが機械化しただの、

車の運転が機械化しただのと、

どんどん無人化が進んでいると聞きますが、

いい暮らしがしたいという欲だけを満たそうと、

より速く、より優秀で、より上を目指し、

いろんなことを我慢し、個性を抑えてでも、

己を世の中の規格に合わせて生き、

最後は機械にとって変わられるって、

何のコントなんだ?と思いますが、

より速く、より優秀で、

より上を目指すことについては、

人間は機械にかなわない。

という事実が待っているような、

望んだ?未来に向かって、

人類は近づいているのかもしれませんね。

大人の背中

「どうやって出し抜いてやろうか?」

という背中を見せたあと、

「出し抜いたおかげで、ウハウハな状態♡」

という、一時的な事実を見た人は、

欲に支配されていない一部の人を除いて、

「俺もやる!ウハウハさいこー!」

と、なってしまうものです。

「そういうウハウハはいかんやろー(苦笑)」

と思い、

「我欲ウハウハー。な人たちの、末路がどうなったか?という冷静な目線があれば、ウハウハ信者も少なくなるのかもー。」

と、考えてみたりもするのですが、

結局、ウハウハの土台になっているものは、

「我欲を満たしたい」ですから、

「あいつは○○を失敗したから、こんな末路になった。俺はもっとうまくウハウハする。(アイタタ)」

などと考えてしまい、

より速く、より優秀で、欲しい欲しい。

と、生きてしまうわけです。

そんな生き方で幸せになれるなら、

「あっしもやりたいっス!」と思うのですが、

「それじゃ、むーりー。」という事実を、

市原悦子さんとカーテン越しに、

覗いてしまいましたのでねー。(嘘)

大人と小人

大人って、肉体的に成人という意味であり、

小人って、小さい子、人って意味もありますが、

(あと「こびとづかん」とか)

大人(たいじん)と読むと、

度量が大きく、徳がある大人物となり、

小人(しょうじん)と読むと、

度量や品性に欠けた小人物(アイタタ)。

という意味になります。(アイタタは超訳)

まあ、日本では、

20歳になればもれなく大人になれますから、

、、、、

、、、

、、

もうこれ以上は書きませんが。

肉体的な大人の背中ではなく、

大人(たいじん)の背中を見せれる大人が

世に増えるといいなと思うんですよねー。

(まず、おまえがガンバレ!)