誤解を解く方法などいらない

人間というのは弱いものです。

たとえば、会社の仕事でも

一生懸命にやっているつもりでも

同僚や上司に理解してもらえないときがある。

なかなか実力をわかってもらえない。

それどころか身におぼえのないことで

誤解されることさえある。

それが噂になって陰口をたたかれる。

そんなとき、大抵の人は、

(こんなに努力しているのにわかってもらえんのやったら、もうやめとこ。あほらしい!)

と考えます。

しかし、人が見ていなくとも

神や仏が見ていてくれたとしたら

どうでしょうか。

仏は見てござるのです。

そして、一時の誤解はやがて必ずとけ、

人の努力は時間がたてば

必ず正当に評価されるものです。

それが「見てござる」です。

そう思うだけで

大きな励しになることと思います。

人のそしりも、

それが根も葉もないこととわかれば、

かえってそれは悔いあらための風となって

返ってくるはずです。

高田好胤さん著 道

もうやめとこ。アホらしい!

「もうやめとこ、アホらしい。」

みなさんは、こんな風に思ったこと

ありますでしょうか?

拙者は以前、毎日思っておりましたが、

最近は一切思わなくなりましたねー。

(エラそうに)

今考えると、当時は、

人を相手にしていたのだと思います。

己を磨くことについて、

相手はまったく関係ないわけですが、

当時は「己を磨く」ことではなく、

「相手から評価される」ことが、

目的になっていたわけです。

例えば、優勝しても

「もっと練習しなくては」と言う、

スケートの羽生結弦選手などは、

以前の拙者のように、

他人の評価を相手にしていないですよねー。

結果は相手次第で変化するものですが、

己の実力は積み重ねただけです。

結果がよかったからといって、

絶対的な一流なのか?といえば

そんなことはなく、

その反対で、結果が悪かったから、

その人は全然ダメ、二流だよ。

ということもないわけです。

結果と過程

ここは異論がないと思いますが、

一番いいのは、きちんと己に向き合い、

納得のいく修練を重ね、そして結果も伴う。

ようするに、結果も過程もよかったね。

という状態でしょう。

しかし、相手を見ていない人が、

その次に目指すのは、

きちんと己に向き合い、

納得のいく修練を重ねたが、結果が出ず。

というところです。

そして三番目には、

納得のいく修練はできなかったが、結果は出た。

最後は、修練にも結果にも満足していない。

という順番になりますが、

以前の拙者のように他人を相手していると、

2番目と3番目が入れ替わってしまうわけです。

自分の評価と他人の評価

他人の評価を求めていなければ、

仮に誤解されたとしても、

己の評価が問題なのですから、

ジタバタすることはありません。

誰かに誤解されても、

「違うんだけどなあ、あの人見る目ないなあー」

と、考え、

今できることを精一杯やればいいだけです。

まあ、その人が出したエネルギーは、

その人に返るものですから、

言いたい放題言われたとしても、

ほっときゃあいいわけですよー。

というより、そのペースに乗せられて、

こちらも釣り合いの取れそうなエネルギーを、

出してしまうことが問題ですから、

そのような状況であっても、

誇りが持てる考え方や、行動ができたか?

むしろ、そっちのほうが、

問題じゃないですかねえ。

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