下層民と高貴な人の性格の違い

健全な社会であれば、

人間は自然と三つの異なるタイプに

分かれます。

精神がすぐれている人、

筋肉や気性が強い人、

そしてそれ以外の凡人。

もっとも凡人が大多数ですね。

それ以外の選ばれたエリートは、

ごく少数だと思います。

この少数者は、

高貴な者の特権を持っています。

その特権には、

「幸福」や「美」「善意」などを

地上に実現させることが含まれています。

また、精神的な人間たちには、

美しいものを味わうことが許されています。

彼らにおいては、

「善意」は弱さとはならないのですね。

美しいものは、少数者のものです。

だから、善意も一つの特権なのです。

汚い手を使ったり、

ものごとを悲観的に眺めたりする。

物事を醜くとらえる眼。

あるいは、ものごとの全体像に対して、

むやみに腹を立てる。

そういうのは下層民の特権です。

「世界は完全である」と

もっとも精神的な者の本能は言います。

不完全なものやレベルの低いものも

世の中にはたくさんありますが、

そういうものを全部含めたうえで、

完全だと言うのです。

キリスト教は邪教です! 現代語訳「アンチクリスト」

F・W・ニーチェ 適菜収さん訳

人は三つのタイプに分かれる

辛辣ですが、

決して浅くはない説ではないかと

思いますので、

順を追ってみていきたいと思います。

まず、

人は自然と三つの異なるタイプに分かれる。

と、いうあたり、みなさんはどう感じますか?

ニーチェは

精神がすぐれている人、

筋肉や気性が強い人、そしてそれ以外。

と分けましたが、

こちとら、40年以上人間やってますが、

まあザックリ、これでいいのかなと思ってます。

ようするに、精神的に成熟した人。

身体能力に優れた人と、それ以外(凡人)

ということですが、

「安心してください、凡人ですよ!」

ということで、少なくとも拙者は、

エリートではないと思っています。

面白いのは、世のほとんどの人(凡人)が求めて

生きているであろうと思われる

財産、地位、名誉などが

エリートの条件に入っていないこと。

ということですから、この場合のエリートとは

「生活の心配がない」状態が最高だといわれる、

動物的なエリートのことではなく、

精神的な成熟を目指す

人としてのエリートのことだということが

見えてくるわけです。

たしかに、高貴な人でなくても

財産、地位、名誉などは手にできますが、

精神的に成熟した人に対して、

人として見習いたいなと思っても、

財産、地位、名誉をもつ人のすべてが

見習いたい人ではありませんね。

少数の高貴な者は特権を持っている

次の、

少数者は高貴な者の特権があり、

その特権には、幸福や美、善意などを

地上に実現させることが含まれている。

というくだりです。

ちょっとわかりにくいかもしれませんが

(あっしだけですかい?)

精神的に成熟した人は、

人間が持つ動物的な感性で感じる幸せ

だけではなく、

動物は感じることができない、

人間にしか感じることができない幸せも、

感じることが出来ますから、

真の幸福を実現できる特権を持っています。

また、

美とは目に見えるものでもありますが、

真の美とはそれだけではありません。

というより、むしろ

目に見える美だけに翻弄されてしまう人が

いいなと思えないものだし、

そんな人と生涯を共にしたいと、

思えないものです。

ですから、真の幸せと同じように、

真の美を実現させる特権を持つのが、

精神的に成熟した人であり、

それ以外の美は、一時的な美であり、

薄っぺらい美であったりするわけです。

そして最後に、善意ですが、

精神的に成熟した人がする善意は

心からの善意で、まじりっけのない善意ですが

それ以外の凡人がする善意は

「こうしておけば、いいことがあるかも」

というような偽善という善意であり、

「以前、お世話になったから、そのお返し」

みたいな、取引という善意であったり、

「何かお困りのことは有りませんか?」

と、仕事のことと関係なく相手に聞き、

役に立って、気に入ってもらえた後に、

商品を買ってもらおう。

というような、

仕事のためという善意である。

ということです。

(クソヤローだと思いますし、吐き気がしますが。笑)

この、凡人の善意には共通したものがあります。

善意の対象は「相手」であっても、

善意の目的がすべて「自分のため」であり、

もっと言えば、己の生活のためなのです。

ですから、このように考えてみると、

ニーチェがいうように、彼らにとって善意とは

己の弱さを補うためにするもの。

ようするに、

「善意をする」のは自分が弱いから。

ということになるわけですが、

精神的に成熟した人であれば、

善意とはただの善意であり、

してもらったからお返しをするとか、

何かを期待してするとか、

クソヤローのように相手をコントロールしてやろう

などというようなことは、まったくありません。

拙者のようにぐうたらな人間でも、

少なくとも善意をする瞬間は、

どこにも心を置かず、無心でやりたい。

と思うのですが、

こんな風に考えてみると、

幸せや美しいものは、少数者のものであり、

善意も高貴な人の特権なのかもしれませんねえ。

それでも世界は一体であり完全

汚い手を使ったり、

ものごとを悲観的に眺めたりする。

物事を醜くとらえる眼。

あるいは、ものごとの全体像に対して、

むやみに腹を立てる。

↑ひどい言われようですが、

まったくもって、あっしのことでした。笑

ですが、

動物的に生きることだけを考えている

あっしのような下層民を含めても、

「世界は完全である」と

精神的な人たちは言うわけですが、

こうなってくると、人間が違うというか、

同じ時間と空間にいても、

生きている世界が違うわけです。