マインドフルネスなものの見方

道のわきに、

ドクダミの花が、さきはじめました。

わたしは、ドクダミという草がきらいでした。

へんなにおいがするし、

どす黒い葉っぱに、ミミズのような赤い茎が、

じめじめした日陰にはえているのですから、

きらわれるのはむりもありません。

名まえからして、さわれば、

指がくさってしまうような気がします。

でもわたしは、車椅子にのるようになって、

とてもだいじなことを知ることができました。

わたしが元気だったころ、

からだの不自由な人を見れば、

かわいそうだとか、

気味がわるいとさえ思ったことが、

ずいぶんありました。

しかし、自分が車椅子にのるようになって、

はじめてわかったことなのですが、

からだが不自由な自分を、

不幸だとも、いやだとも思わないのです。

けがをして、一、二年は、

からだのことでなやんだり、

くるしんだりしました。

でも、うけた傷は、いつまでも、

ひらきっぱなしではなかったのです。

傷をなおすために、

そこには新しい力が自然とあたえられ、

傷あとはのこりますが、

そこには、まえよりつよいものがもりあがって、

おおってくれます。

からだには傷をうけ、たしかに不自由ですが、

心はいつまでも不自由ではないのです。

不自由と不幸は、

むすびつきやすい性質をもっていますが、

まったく、べつのものだったのです。

不自由な人を見て、

すぐに不幸ときめつけてしまったのは、

わたしの心のまずしさでした。

だから、

ドクダミを見たとき、わたしは思いました。

“自分のまずしい心で花を見てはいけない・・・”と

かぎりなくやさしい花々 星野富弘さん著

見えているのか、見ているのか

不自由な人を見て、

すぐに不幸ときめつけてしまったのは、

わたしの心のまずしさだったと

星野さんは書かれています。

そのような目線は、

ご自身が車椅子に乗るようになって、

ようするに、ご自身が不自由になってみて、

はじめてわかったということですが、

「相手の立場に立ってみる」

ということの難しさを教えてくれています。

自分がされて嫌なことは・・・

「自分がされて嫌だと思うことは、他人にしてはならない。」

と、いうような言葉を、

みなさんも一度ぐらい聞いたことがあるかと

思いますが、

この言葉を聞くたびに、

「正解だよねー」と思う反面、

「いや、違うだろ。」とも思っていました。

何が違うのよ?というと

この言葉・・・

そもそも、他人のことを考え、

他人に向けた言葉であるにもかかわらず、

「自分がされて・・・」というように

主語が「自分」になっているわけです。

「他人の事を考えようZe」と、

いいことを言っているにもかかわらず、

基準が「自分」って、とても惜しいんです。

例えばわたしは、

お酒をまったく飲めないのですが、

どこにいっても「お酒強そう」と言われます。

そんなわたしですので、

「飲める人」と勘違いされることも普通にあり、

気が付くと、飲み会などで、

「お酒飲み放題の人数に入っていた。」

なんてこともよくあるわけです。

そんなときは、

「いやー、お酒飲めないんですよー」と伝え、

「ソフトドリンク飲み放題」

に変えてもらうわけですが、

「お酒が飲めない」と

伝えているにもかかわらず、

「どうしたの?どっか調子悪いの?」

「今日、車?」

などと聞かれてしまうのです。

こんなことを延々と、

書きたかったわけではないのですが、

話が脱線しすぎました・・・。

ようするに、こんなわたしが

「毎日暑いし、こういう時はやっぱビールだよねー」

と、ビールをいただいても、

ヘラヘラしながら

「ありがとうございます!」と

言うしかないわけです。

ですので、この言葉を聞くたび。

というより・・・、

この言葉を言っている人を見るたびに、

「すごく惜しいよ、残念だ。」と

己の残念さは棚に上げ、

無念を感じておったわけです。

じゃあ、どうなの?

ですがそうはいっても、

相手の優しさであることに変わりはなく

(取引のための計算かもしれませんが・・・)

好意は伝わってくるので、

非常にもどかしさを感じるわけですが、

そのもどかしさの原因は、

「自分」を基準に判断したもの。

だということであり、

もっと言えば、

自分「だけ」を、判断基準にして

考えたり判断している。

ということであるわけです。

「わたしが元気だったころ、からだの不自由な人を見れば、かわいそうだとか、気味がわるいとさえ思ったことが、ずいぶんありました。」

と、星野さんも書かれていますが、

自分「だけ」を判断の基準に

するだけではなく、

仮に、自分「だけ」を判断の基準にして

かわいそうだと思ったとしても、

「そうはいっても、なんだか楽しそうよね」

と、相手にも少し、視線を向けてみるだけで、

「じゃあ、どうすればいい?」と

相手も含めて考えることができ、

相手に向けた優しさが、

さらに力を増すのではないかと思うのです。

ありのままに見る

拙者は、心がまずしいので、

この世の全てのものを「まずしさ」という

フィルターを通して見てしまいます。

例えば花を見て、花は花であるのに

勝手に「まずしい花」や

「華やかな花」に分けてみたり、

また、普段は気にならない花でも、

まずしくて仕方がないときには、

己の心のまずしさを解消するために、

花を利用しようとする。

というように、

なにかにつけて「まずしさ」に結びつけ

花を見てしまうような、

つまらない者であるわけですが、

花はただ、花であるだけなのに

結局、拙者がフィルターをつくり、

拙者フィルターを通して、

花を見ているわけですねー。

ようするに、同じ景色でも、

それぞれのフィルターによって、

景色が違って見えるわけですが、

「人間はつい、己だけのフィルターで、世の中を見ようとしてしまうものだ」

ということを頭の片隅に置きながら、

なるべく、ありのままに見ようと

意識していくことが、

大事なことだと思うのですよ。