智慧と知恵の違い

この自我と知識から生まれてくるのは

不平、不満と権利の主張です。

無我と智慧から生み出されてくるのは

「有難いことで」、「おかげさまで」、「勿体ない」、

そうした喜んで感謝する心の養いです。

どんなに豊かなものに恵まれても、

喜んで感謝する心の養われのない人は

一生経めぐり回って

幸せにめぐり合うことのできない人です。

チルチルとミチルという二人の子供が

幸せの青い鳥を探し求めて

世界中を遍歴するけれども、

どうしてもめぐり合うことができず、

結局目がさめて、

我が家の鳥籠の色あせた鳥が

幸せの青い鳥であったと気づいた

というあの有名な「青い鳥」で、

作者のメーテルリンクは

喜んで感謝する気持の中からこそ

幸せの青い鳥が生まれてくるのだ

ということを教えてくれています。

親の姿 子の心 高田好胤さん著

同じ知識でも

「自我と知識から生まれてくるのは不平、不満と権利の主張です。」

と、あるように

自我を手放そうと生きてこなかった人が

知識を得ると、

他人を出し抜き、我欲を満たすために、

得た知識を使おうとします。

うまく他人を出し抜き、

我欲を満たすことができればいいのですが、

それが思うようにならないときに出てくるのが、

不平、不満と権利の主張です。

その反対に、自我を手放そうと精進している人が

法(ダンマ)という智慧を得た場合

どういうものが

無我と智慧を通してうまれてくるかというと

高田好胤先生が説いてくださるように

「有難いことで、おかげさまで、勿体ない」という

今のわたしに感謝することができる生き方です。

同じ「ちえ」というものなのですが、

一方では知恵であり、また一方では智慧です。

それは「ちえ」に優劣があるのではありません。

受け取るわたしによって、

「ちえ」に違いが出てくるのです。

我欲があるから人間ですが・・・

そして同じ「ちえ」なのですが、

「知恵」は多くの場合、

自分を満たすために使われ、

「智慧」は、わたしと、

まわりを満たすために使われます。

「自我があるから人間だ、我欲があるから人間だ!」

という意見もあると思います。

確かにその通りです。

確かに人間とはいえ、

他の生き物と同じ生物です。

ですからそれが人間であり、

人間も生き物のひとつなのですが、

我欲のみに生きていこうとするのは、

人間とは言えません。

例えば「笑う」という行為は

人間にしかできない行動だそうですが、

その「笑う」という行為を、

自分の思うようになったときに使うのか?

それとも、他に与える影響のために使うのか?

ということを考えてみた場合、

自分さえ良ければいい、

うまくいったと使う笑顔には、

自分のためだけの笑顔です。

というより、自分さえ良ければいい、

うまくいったと使う笑顔など、

他の生き物には必要がないわけですから、

人間にだって、他の生き物と同様、

必要がないわけです。

だけど人間は、長い進化の過程の中で、

唯一、笑顔という能力を

持つことができました。

笑顔という能力を持つことができた

という事実には、

なぜ笑顔が必要なのか?という

問いに対する答えが含まれています。

そして、わたしも人間です

生きとし生けるもののなかで、

我欲にとらわれず、

自我、自我と主張するだけの生き方を、

唯一、手放すことができるのは人間です。

他の生き物は自我を手放す修行などできませんし、

本能レベルで思いやりを持つことはできても、

智慧として思いやりを持つことができるのは

人間だけです。

だけどわたしも人間です。

そうなりたいと思いながら、

本能の赴くままに行動することもあるわけです。

だけど反面

「人間は、それだけじゃないんだ」という思考も

あわせて持っています。

「人間も生き物だ、だから我欲に忠実に生きて何が悪い。」と

「人間も生き物だ、だけどそれだけじゃないのも人間だ。」と生きていく人

みなさんは、どちらの人でありたいと思い、

また、どちらの人に囲まれて

生きていきたいと思っていますか?

そして、今みなさんのまわりにいる人は、

どちらの人なのでしょうか?