死の恐怖と、未来の不安への処方箋

あの一生がやっと終わったかと思いきや、

またクルンと生まれ変わって、

今度はこの一生が始まる・・・

と繰り返すのはたいへんすぎる。

死んだら、身体と神経と記憶と

衝動(エネルギー)と意識という

五つのパーツがバラバラになる。

バラバラの部品をもう一度組み立てて、

この人生という家をつくり直す黒幕は

いったい何者だろう?

私はその正体を見破れないままに、

何度も何度も生まれ変わってきた。

人生の黒幕よ、おまえの正体は

「欲しい欲しい、足りない足りない」と騒ぐ

生存本能なのだと私はもはや見破った。

おまえが生まれ変わりの建築材料に使う

煩悩も無知も、すべて破壊し尽くした。

私は次に死んだら

二度と生まれ変わらないだろう。

私の心は、生まれ変わりを続けさせる

衝動(エネルギー)を離れて

静まりかえり、

生存本能を滅してブッダとなったのだから。

法句経153、154

小池龍之介さん編訳、超訳 ブッダの言葉

欲望を求める生き方

拙者も

「欲しい欲しい、足りない足りない」という

生存本能だけにしか興味がないような、

動物的な生き方を軽減するため、

日々精進をしています。

目に見える情報や、耳にする情報の多くは

「欲しい、足りない」を肯定し、

いわゆる「動物的な欲を満たしていこうよ。」

と、いうよう情報がほとんどです。

人間ですから、欲があるのが当たり前であり、

また欲を満たそうと生きるのも

問題はないのですが、

「頭の中は、ほとんど欲だけ。」

という状態は、

人間の生き方として

少し問題があるのではないでしょうか。

快楽や欲望を満たす情報

なぜそのように、動物的に生きるような

欲求を満たそうzzzzee!的な情報が

世間に多いのかと考えてみると、

その原因は、死に対する恐怖を、

多くの人が抱えているからではないかと、

あっしは思ったわけです。

というより、死の恐怖が自分にあることすら、

気がついてない人も多いのかもしれません。

簡単に言えば、

快楽や欲に目を向けることによって、

本能的に死の不安や恐怖をごまかそうとしている

・・・のでは?

と、それがしは考えてみたわけです。

不安と恐怖の原因

例えば、お金、お金、という人は、

未来の生活に対する恐怖と不安を持っていて

だから、蓄えようとする。

また、今が不安で満たされてない人は、

長生きしていれば幸せになれる「かも」

と、勘違いをしているので

病気や老いが気になり、

サプリや健康食品に目が向く。

人は誰でも先のことはわからず、

また、老いていくものですし、

また、誰でも病気になるものですが、

それを受け入れることができるほど、

「今、幸せではなく、心が満たされていない。」

↑これが問題。

そして、今幸せになるのではなく、

未来で幸せになろうとしているから、

お金に執着したり、

少しでも健康であろうと思い、

老いを遅らせたいと考える。

今、満たされた生活を送っているのなら、

「今がサイコー」なのですから、

後悔もなく、

わざわざ未来のことを考えてみたり、

不安を持つことは少ないでしょうが、

未来の生活に対する恐怖と不安を

持ってしまうということは、

今幸せじゃない=まだ死にたくない。

となり、

幸せになるための武器として、

お金を求めてしまうのではないでしょうか。

幸せになる方法がわからない

人間はみんな死にます。

みんな死ぬわけですから、

もしかしたら明日、死ぬかも知れないのに、

なぜ、今日に目を向け、

今日を豊かにしようとせず、

幸せを先延ばしにして、

未来を憂い、考えてしまうのか?

それは、幸せになる方法を知らない

ということです。

今お腹がいっぱいで満たされている人が、

すぐに次の食事を考えないように

今、幸せになることが出来れば、

未来に不安を持つことは

少なくなってくるものですから、

とりあえず未来ではなく

「今ここ」に目を向けてみることが、

幸せに必要なことだと、あちきは思うのです。

幸せも不満も自分次第

毎回なにか特別なことや、

ヤッターと思うようなことがなければ、

幸せを感じることができないのなら、

この世に幸せな人はいないでしょう。

ということは、幸せだと思えないのは、

逆に考えてみると「幸せが見えていない」

ということではないでしょうか。

ようするに、

幸せも不満も外から発生しているのではなく、

自分の内側から発生しているわけです。

ということは、

幸せになる解決策を外部的な要因に求めても、

幸せにはなれないということであり、

反対に言えば、

自分の考え方の習慣を変えていくだけで、

人生は変わってくるということです。

なんだかんだと考えていても、

結局、最後は死を迎えるものであり、

未来への不安や恐怖も、

死んだらする必要がないものです。

例えば、歯が痛いのに鎮痛剤を飲んでも、

一時的に効くのみで、

痛みの治療ができないのと同じで、

死の恐怖をごまかすために快楽を求めても、

死の恐怖を無くすことができないように、

今に目を向けず、

今ここに無いものばかりを見ようとすれば、

誰でも不幸にまっしぐらですが、

今に目を向けて、今手にしているものを見て、

感謝することができれば、

大きな恐怖や不安が湧くことはなく、

誰だって幸せに向かえるわけです。

そのようにして、

幸せ感を持つことができるようになってくると、

今を見る習慣ができ、

あまり未来を見なくなり、

死への恐怖がだんだんと減少していきます。

わたしの心が満たされてくると、

今、わたしが満たされているのは、

今までの人生で起きた、

嫌なことや嬉しかったこと、

その全てを通ってきた結果だと、

思えることが出来るようになるものです。

「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」

と孫子は説きましたが、

生存本能という欲望の術中にはまり、

明日、明日と考えてしまうのではなく、

「今ここ」を味方にして、

欲望をよく観察し、

その真実を知ることができれば、

たとえ、百戦しても、

恐怖と不安にうち克つことが出来ると、

あっしは思うのでありますよ。