北条時宗「臆病についての対話」

時宗が師事した一人に、

彼が中国の宋から招いた禅僧の無学祖元がある。

祖元は、はじめ鎌倉の建長寺に、

ついで円覚寺に住した。

時宗は政務の傍ら常に祖元について禅を学ぶ。

ある日、彼は祖元に

「私は臆病でこまる。気が小さくてこまる」

と悩みを訴えている。

この告白は(自分はもっと努力して胆力を練らねばならぬ)との、

自分の努力不足の反省から、

祖元に指導を求めたのであろう。

的確に自分を「小心・臆病」と認知できたら、

その人はすでに小心者でも臆病者でもない。

このとき、時宗はすでに、

「甕の如き胆力」を自分の中に据えたと

見るべきであろう。

それは祖元と時宗の間で交わされた

「臆病についての対話」でわかるであろう。

時「人間が卑怯・懦弱(いくじがない)を脱するには、どうしたらよいか」

祖「卑怯・懦弱がやって来る源を押さえたらよい」

時「その源はどこにあるか」

祖「汝、時宗から来る」

祖元にこのように極めつけられて、

時宗は意外と思うとともに不快を感じた。

「私が卑怯・懦弱を嫌っていることは、あなたもご承知と思う。それを何故に「卑怯・懦弱の根源が時宗にある」といわれるのであるか」

と開き直る。

しかし祖元は一向気に介せずに、

「明日からでも、時宗を棄てたら汝の胆力は天地の如く大きくなるであろう」

とつっぱねる。

祖元のこの答が、時宗との応答のハイライトである。

おもうに自己を悩ますものは、

他者ではなくて、自己に外ならぬ。

私たちは、一身上の大事件に出あうと、

ともすると身びいき身勝手の考え方が

頭をもたげはじめる。

責任を逃れたり、

死ぬのが怖くなるのは自分の身をかばうからだ。

故に祖元は「時宗を棄てよ」という。

松原泰道 喝 ー人生何を支えに生きるかー

梅干しは何も悪いことはしていない

文中には

「卑怯・懦弱の根源はすべて君にあるのさ」(超訳)

と書かれていますが、

実は・・・卑怯・懦弱だけではなく、

全ての原因は、このわたしにあります。

(きゃあぁあああー)

「私は臆病だ」と思いながら、

その臆病さに向き合い、

2度の元の侵攻(元寇)を防いだ、

北条時宗ほどスケールが大きくない話ですが、

普段は梅干しが大嫌い!だけど、

体調を悪くしたとき仕方なく梅干を食べる。

みたいだった知人が、

年のせいか(失礼な)、

最近はえらく梅干しが気に入ったようで、

近頃では自ら梅酒をつくり、

梅干しも漬けるという状況のようです。

梅干しは何も悪いことをしていないし、

また梅干し自体も、拙者が幼き頃より、

なにも変わっていないのですが、

「あんたなんか大嫌い!」などど

えらく嫌われたかと思うと

今は「梅干しサイコー!」と

愛でいっぱい。なのは

梅干しが好かれようと、

涙ぐましい努力をした・・・。わけではなく、

知人の中で何かが変化したわけです。

好き嫌いを決めているのはこのわたし

梅干しも、何もしていないのに、

「だいっきらい!」とまで嫌われてしまい

「梅干しもつらいねー、おつかれー。」

と声をかける以外、何もできませんが、

結局、全ての感情の源を創造しているのは

自分自身なのですね。

文中で、

「卑怯・懦弱をなくすにはどうしたらいいのか?」

という北条時宗の問いに

祖「卑怯・懦弱がやって来る源を押さえたらよい」

と、禅僧の無学祖元は答えていますが、

ようするに、

「感情の源になる、ものの見方」を

変えればいいと、言われるわけです。

なぜかハクション大魔王

こういう景色が見えてきた人は、

人生が楽になっているのではないでしょうか。

「飢えては食を択ばず」

という、ことわざもありますが、

本当に飢えてしまったら、

なんでも喜んで食べれるはずです。

好き嫌いはわたしの都合なのですから、

「嫌い」から発生する「不快感」を

なんとかしたいと思ったら、

嫌いな対象に対して

「思い通りになれ!」と魔法を使うのではなく、

「アラビン、ドビン、ハゲチャビン」を、

わたしに対して使うわけです。

ハクション大魔王 ウィキペディア

それは「とにかく我慢する」というような

単純なものと、まったく違いますが、

くしゃみをしたり、あくびをしながら

ボチボチやっていけば

いいのではないでしょうか。

※再放送で見ていましたー、なつかしい。

アクビ娘の歌 ユーチューブ

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