おもむくままに生きようとする人たち

自分を愛しすぎること。

これが、善からぬことの第一である。

自分を愛し過ぎるとは、

おのれの心に宿る愛を全て自分に振り向けて、

他者には全く振り分けないということです。

そうなると、自分の他は目に入らなくなる。

世の中の幸福・他人の幸福を、

全く顧みなくなってしまう。

すなわち、私利私欲だけの人間です。

ここまで何度か述べてきたように

「意・必・固・我」にとらわれた

哀れな者である。

こんな人間は、

何をやってもきっと上手く行きません。

自分を愛し過ぎている者は、

学問でも鍛錬でも、どんな分野の修行であれ、

モノにはならぬ。

事業を起こしたとて、

決して最後には成功せぬ。

失敗をしても、決して改められぬ。

だからまた、同じ失敗を繰り返す。

そこまで愚かな行い続きでありながら、

いつでも功名を求めて、

他人に誉めてもらいたがる。

だが、たいていは周りから

マトモに相手にしてもらえません。

すると、反省するどころか却って

「この私を誉めよ」と、わめき散らし、

人々に蔑まれているのも気づかずに、

必死で“中途半端な成果”を

吹聴して廻るのである。

じつに哀れな、愚かしい態度である。

これ皆、自分を愛し過ぎる結果なのです。

人は、どのような人生を歩むにせよ、

本当に善き人生を全うしたいと願うならば、

まず第一に

「自分を愛し、しかし自分を愛し過ぎない」

という心得を、肝に銘じることです。

西郷南洲翁遺訓 長尾剛さん著

非常に手厳しいですね

非常に手厳しい評論ですが、

わたしのまわりにもこんな人はいるし、

間違いのない評論でもあります。

美味しいもの食べたい、大好きよ

旅行に行きたい、お金も欲しいなどと

欲望のおもむくままに生きようとすることを

天真爛漫と勘違いしている方が、

世の中には、いらっしゃるようですが

それはただ、

己の幼稚さを正当化しているだけに、

過ぎません。

美味しいもの食べたい、大好きよ。

旅行に行きたい、お金も欲しい。が

悪いとは言いませんが、

これらの行動はすべて、

「わたしが主語」になっている言葉であり、

少なくとも、そう考え行動している間は、

愛を他者に振り分けようとは、

していないわけです。

自分を愛し過ぎると

自分を愛し過ぎ、

欲望を満たすことに心を奪われた人は、

まわりにもそのように生きたらいいよと

勧めるものですが、

実際に自分のことばかり考えるような、

幼稚な者ばかりの社会になったら、

誰が面倒を見るのでしょうか?笑

未熟な者は、成熟した人たちのおかげで、

己の欲望に忠実に生きることができている。

ということすら、理解できていません。

理解できないどころか、

もっと、もっとと求めるわけですが、

「○○したい」という私利私欲に忠実に、

おもむくままに生きてばかりだと、

満たしてもらったことには感謝できず、

感謝・満足ができないので、

「次はわたしが誰かのエゴを受け止める番だ」

というような、

慈愛の感情を持つことができる、

成長・成熟への道を歩くことができません。

こうなるともう、

西郷さんがおっしゃるように、

哀れとしか言いようがないわけです。

私利私欲を満たそうとしてもいい

わたしは私利私欲という、

己だけの欲望を満たそうとする生き方は、

片方では有りだと思っています。

赤ちゃんが親に全てを委ねるように、

人生にはそういう時期は必要です。

そうして満たしてみることで、

はじめて感謝できるようになるわけですし、

己が満たされた経験が、

私利私欲におもむくままに、

生きようとする人たちの気持ちに対して、

「あなたのその気持ち、わかるよ。」という、

共感を持つことができ、

それが慈愛に変わると思うのです。

ですが、もう30を越えた大人であれば、

満たされた経験もあるはずです。

にもかかわらず、満足という気持ちや

他者に目を向けようとせず、

己の欲望に支配されたまま生きていくのは、

少し未熟だと思いませんか?

何事も過ぎれば毒と言いますが、

己を愛しすぎない、我欲に支配されすぎない。

という生き方の先に、他者への愛があり、

また、その生き方の先に、

他者への愛を持つ人も、待っているわけです。

今書いたようなことは、

このサイトに来る方々にとっては、

当たり前の事でしょうが、

わたしたちはこのような、

未熟な人たちに対して、

「どうすれば慈愛に続く橋を渡ってもらえるのか?」

ということを、考えなければなりません。