死と再生

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ランチには、われわれの自由に使用できる

10ヘクタールほどの肥沃な土地があった。

われわれはそこに、果物や野菜を栽培し、

また、そこで戸外の作業を楽しんだ。

動物もたくさん飼っていたが、中でも一匹の子鹿は、

生徒たちからたいそうかわいがられていた。

私もこの子鹿が好きで、

夜は自分の部屋に寝かせたくらいだった。

明け方の光が射し込んで来ると、この子鹿は、

ちょこちょこと私のベットに歩み寄って来て、

朝の愛撫を求めた。

ある日、私は用事で町へ出かけた。

そのため、私はいつもよりも早めに

子鹿に餌をやって、子供たちには、

私が帰るまでは子鹿に何もやってはいけないと

言い付けておいた。

ところが、生徒の一人が私の言い付けを忘れて、

ミルクをしこたま飲ませてしまった。

夕方私が帰ると、

生徒たちが悲しい知らせを持って

駆け寄って来た。

「子鹿が、ミルクを飲みすぎて死にそうなんです!」

死んだようにぐったりした子鹿を

ひざの上にのせて、

私は涙とともに、

神に子鹿の命を助けたまえと祈った。

二、三時間すると、

子鹿は目を開いて立ち上がり、

力なく歩きはじめた。

学校じゅうの者が歓声をあげた。

しかしその夜、

私は忘れることのできない深い教訓を

与えられた。

私は夜中の二時ごろまで

子鹿のそばに起きていたが、

そのうちにうとうとと眠ってしまった。

すると夢まくらに子鹿が現れて、

私にこう言った。

「あなたが引き止めるので、私は行くに行けません。お願いですから、どうか私を行かせてください」

「よし、よし」私は夢の中で答えた。

私はすぐに目をさまして叫んだ。

「おい、みんな、子鹿が死んでしまうよ!」

子供たちは私のそばに走って来た。

私は、部屋のすみの子鹿のところに駆け寄った。

子鹿は最後の力を振りしぼって、

つまずきながら私の方に歩み寄ると、

ついに力尽きて、

私の足もとに倒れて息が絶えた。

この子鹿は、

動物たちを支配するカルマによって、

今ちょうど鹿としての生涯を終えて、

より高等な動物に進化する時期に

来ていたのである。

ところが、私の愛着

ーこれは利己的なものであったと、あとで気づいたのであるがー

と、熱心な祈りのために、

子鹿は今の状態から離れることができず、

その魂が解放を求めてあがいていたのである。

子鹿の魂は、私の理解ある許しを得ずに

私のもとを去ることができなかったので、

夢まくらに現れて嘆願した。

そして、私の承諾を得ると

すぐに旅立って行ったのである。

悲しみは消えた。

神は、その子らであるわれわれが、

万物を神ご自身の一部として

愛することを欲しておられるが、

また、死によって

すべてが終わってしまうわけではないことを

理解するように望んでおられる、

ということを私はあらためて悟った。

無知な人は、死を、

自分と愛する人々を永久に隔ててしまう

越えることのできない壁、

とのみ思っている。

しかし、万物を神の現われとして

愛することを知っている執着のない人たちは、

死とはその愛するものが再び喜びに満ちた

最高のいこいの場所である

神のふところに戻るだけだということを

理解しているのである。

あるヨギの自叙伝 パラマハンサ・ヨガナンダ著

わたしの「業」

もし仮に、目の前で誰かが苦しんでいても、

それはその人が今まで積み重ねてきた

「業」によって溺れているわけであり、

その人の「業」(カルマ)は、

自分ですべて刈り取らねばならず、

まわりで苦しむのを見ている人には、

その人の積み重ねたカルマの結果の苦を、

代わりにどうにかしてあげることなどできません。

仮に助けてくれと懇願され、

苦の窮地からその人を救えたとしても、

結局その人は、自らの手で

己が積み重ねてきたカルマの帳尻を

いつかは合わさなくてはならないので、

業が消えたわけではなく、

ただその時期を先送りしただけ。

ということになります。

こうやって文章にしてしまうと、

苦しんでいる方が、とても気の毒に思えたり、

何だかまわりの人が冷たく感じてしまいますが、

この法則はわたしを含めた、

全ての人に適用されるものであり、

また、寸分の狂いもないようです。

人助け(布施)とは

そのように考えてみると、

結局、人助けとは、相手のためではなく、

ひょっとすると功徳を積むため、

自分のためにしているのかも知れない

と思ってしまいますが、

本当の人助けとは、

心を何処にも住せずに布施をすることが

本当の布施であるといわれます。

どういうことかといいますと、

例えば、助けたという評価が欲しいから

人助けをするとか、

何かの見返りを狙って

人助けをするというのは、

それぞれ、助けたという評価が目的であり、

見返りが目的なのですから、

こうなると善行には違いはありませんが、

いってみれば取引やビジネスであり、

本当の人助けとは言えないということです。

本当の布施とは、ようするに、

たまたま目の前に手伝ってくれという人が現れ、

たまたま自分の能力で

手伝えそうなことだったので、

たまたま手伝えることができた。

という感じでやるものだと言います。

言ってみれば、わたしの自我に拠らず

心が「空」の状態でやるのが、

本当の布施であるということです。

まわりは手伝うことしかできない

いずれにしても、まわりにできることは、

その人の背中を押すことぐらいしか

できないわけですが、

背中を押すことができたその場だけで、

全てが終わってしまうのではなく、

営みはこれからも続いていくわけであり、

また、その人の新たなステージの

始まりかもしれない

ということが、実感できるようになると、

それはわたしを含めた

すべての存在が同じであるわけですから、

一時的な感情が湧きあがっても、

その感情に支配され、

のみ込まれないようになることが

できるようになるわけです。