生死は表裏一体 柳生但馬守の武士道(弓と禅)

柳生但馬守は偉大な剣道家で、

時の将軍徳川家光の指南番であった。

一日旗本の一人が但馬守の所にやって来て、

剣道の指南を頼んだ。

師がいった。

「お見受けするところ、貴殿はすでに剣道の師のようであるが、我等師弟の契を結ぶ前は何流で御座ったか話されい。」

その旗本は答えた。

「お恥しき儀なれど剣道を習いしことは御座いませぬ。」

「拙者をお戯れになるつもりか。拙者は将軍御指南役で御座るぞ。この眼に狂いは御座らぬ。」

「御意に逆らいて恐れ入りますが拙者は何も知り申しませぬ。」

客の否定があまりきっぱりしているので、

師は少し考えていたがついにいった。

「貴殿がそういわれる以上、左様に違い御座るまい。しかし何とは判然(はっきり)申し難いが、何かの師匠であったに違い御座らぬ。」

「たってといわるるならば申し上げましょう。実は完全に習得したと申しえらるる一事が御座います。其(それがし)未だ年少の頃、武士としていかなる場合にも死を恐るべきにあらずとの念を発し、爾来数年、死の問題と組打ちいたし、ようやくにしてそのことを全く煩うに及ばなくなりました。御師匠はこのことでも指されるので御座いましょうか。」

「確かに」と但馬守は叫んだ。

「その通りで御座る。拙者の判断に間違いはなかった。剣道の極意は死を恐れざることで御座る。某は当流において幾百の門弟を指南しておりますが、一人として誠それはどに免許皆伝に及んだものは御座らぬ。貴殿は技を学ぶには及ばぬ。立派に師範で御座る。」

剣道が習得される道場は昔から、

悟りの場所

という名前を持っているのである。

弓と禅 オイゲン・ヘリゲル著 稲富栄次郎・上田武訳

我欲とは

引用されている文章は、

佐賀藩士、山本常朝(やまもとつねとも・じょうちょう)の著作

「葉隠」からの一節です。

己(我欲)を捨ててこそ、

見えてくる景色があり、道がある。

ようするに「生に執着する」という、

我欲を越え、新しい境地を得た。

ということですねー。あっぱれ!

この場合は、生への執着を元にした、

死に対する恐れを克服したことで、

死の恐怖を克服した人だけが、

見ることを許される景色が見えるようになり、

また、新たな剣の道が見えるようになった。

それが「わたしに教えることはない」

ということであり、

「あなたは立派に師範だ」と

いうことになるわけです。

我欲とは、文字通り「我の欲」

つまり、わたしだけの欲ということですが、

その我欲の中でも大きなものは、

生存する欲求。

ようするに「生きたい」という欲求が、

一番強いのではないでしょうか。

西郷隆盛の言葉

西郷隆盛の数々の言葉を記した

「西郷南洲遺訓」の中に、

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。」

という言葉が出てきます。

簡単に言うと、

長生きしたい、有名になりたい、お金が欲しい

などという、欲に目が奪われていない人は、

地位や財産などと引きかえに、

何かを頼もうとしても、

簡単には引き受けてくれないので、

その人の心を動かすことは難しい。

といった意味になりますが、

実はこの言葉の後は、

「この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」

と、続きます。

ようするにリーダーというものは、

長生きしたい、有名になりたい、お金が欲しい

などという、

欲に目が向いていない生き方が可能な、

我欲から己を解放している人でなければ、

あらゆる困難を越えることができず、

仕事(大業)を成せないという意味です。

これを拙者風にまとめてみると、

リーダーたるもの、

欲に心を動かされ行動するのではなく、

己を捨てて「公」のために、

行動するようでなければ、

とてもじゃないが、リーダーなどできん。

じゃが、そういう人材に仕事を任せるには、

条件で釣ることなどできないから、

己の人格を、まずは磨き、

「こいつが言うのであれば」と、

心を動かしてもらう以外に方法はない。(超訳)

ということになりましょうかー。

「士は己を知る者のために死す。」

「英雄は英雄を知る。」

と、いうことでございましょう。

我欲(エゴ)を捨てる

己の欲を満たそうとする生き方だと、

どうしても、公や道のことは

考えることが出来ないものです。

剣道や茶道などの、道を志す人や、

公のために生きることを志す人にとっては、

「わたし流」で教えを聞いたり、

行動していると、上達などしませんので、

我欲は成長の妨げになっても、

助けにはならないものです。

ですので、

「我欲とどう付き合うか」ということは

志がある人たちにとって、

永遠のテーマなのですが、

あくまで、

「我欲というエゴをなんとかすること」

であって、

「個性や命まで捨てよ。」

と、言っているのではありません。

我欲というエゴを捨てるということは、

例えば、わたしの個性は持ったまま

公であれば公に己の一切を預け、

道であれば、

追求する道に己を預けるということです。

ようするに、なにかに遭遇した時に、

己をいったん横に置くことができるか?

それが志を持つ者の生き方であり、

道を求める求道者の生き方だということです。

例えば「わたし」という自我を持ったまま、

茶道を学んだとしても、

基礎がきちんとできる前から、

わたしというエゴのフィルターを通して、

茶道に向き合うわけですから、

その基礎は師が伝えてくれたものではないし、

茶道は「わたし流」でしかないわけですねー。

守・破・離

師弟関係の在り方のひとつに

「守・破・離」というものがあります。

守とは、師や道の教えを

徹底的に守ることで、

まずは自分のものとすること。

破とは、

その自分のものになった師や道の教えを、

あえて壊す。

ようするに、手渡していただいた型に、

わたしという個性を加えること。

そして最後に、

受け継いだものを持ったまま、

個性を加え、型を破ったことで、

新しい型を創造することができ、

ひとり立ちし、離れることができる。

ということですが、

我流で教えを聞いてしまうと、

基礎を構築することができず、

その結果、道を誤り、師も道も越えれず、

結局は大成できないわけです。

我欲こそ人生

そうは言っても、

「欲を満たすことこそが、人生だ!」

という方もいるでしょう。

それは、その人の人生ですし、

好きにすればいいことですが、

我の生き方を追求する以上、

道と一体になることはできませんので、

「志はあきらめてくださいませ。」

ということになります。

ていうかー、

我流で好き勝手にやって究めれるなら、

志士だらけの世の中になるし、

たいした苦労などいりませんよねー。

我欲を求めて生きることは、

動物でもできる簡単な生き方ですから、

志を持っている人間が、

わざわざ近づいていくような、

生き方ではないわけです。