死と向き合うと、なぜか自分が見えてくる法則

どう死ぬかとは、どう生きるかということです。

そして、どう生きるかとは、

どう、ありのままの自分を受け入れるか、

そこが出発点だと僕は思っています。

「死を見ない」というのは、「ありのままを見ない」ということです。

「自分の嫌なところを見ない」という生き方です。

それでは自分に素直になれるわけがない。

それではどんなにがんばっても、

一番身近な存在である自分にくつろげるわけがない。

嫌なものを価値判断せずに、ありのままに見れば、

それを生かすことができます。

例えば、あなたがピーマンを嫌いだとして、

冷蔵庫にあるピーマンを見ないようにしたら、

それは腐るだけです。

しかし、ここにピーマンがあるとわかれば、

ピーマンを超細切りにしてチンジャオロースにだってできるんです。

ありのままを見ずに到達できる真理などありません。

ありのままの自分に素直になれたとき、あなたのハートは解放されます。

あした死ぬかもよ? ひすいこたろうさん著

どう死んでいくか

どう死ぬかということは、どう生きるかということとあるように

わたしが死ぬときに、何を思い、どう死と向き合い

どのように死んでいきたいのか

と、いうことを見つめていくと

わたしはどう生きていけばいいのか?

と、いうことが見えてくるものです。

人生の最後をどう締めくくりたいを考え

それに向かった生き方をすること。

死を考えるということは、結局、

どのように生きていくかを考えることにつながっていくのです。

今のわたしを受け入れる

どのように人生の最後を迎えるか。

その最後をイメージするということは、

まずは、今のわたしをよく知ることが必要です。

それはなぜかというと、

人生の最後がイメージできたとしても、

今のわたしがどこにいるのかが見えなければ、

道をつなげることができないからです。

わたしの描く人生の最後を迎えるために、

今のわたしをよく知る。

「今ここ」から「人生の最後」までの

道を確認する。

そういう作業が必要になってきますが、

そのときに大事なことは、

「今のわたしを受け入れる」ということです。

わたしを受け入れる

めざす最後をイメージして、歩く道を確認するということは、

今のわたしだからできることであり、

今のわたしにしかできないことです。

どういうことかというと、

今まで歩いてきた道には、

つらいこと、くるしいこと、楽しいことなど

様々にあったと思いますが、

それらすべてがあって、今のわたしがあるわけで、

今まであった、どれかが一つ欠けても、

今の場所に、今と同じ自分がいることはありません。

ですから、

めざす最後をイメージして、歩く道を確認するということは、

今の自分に全部OKを出すこと。

まずはそこから始めないといけません。

どう生きていくか

ようするに、

冷蔵庫にあるピーマンを腐らせるか、

それとも、チンジャオロースにするのかは、

すべて、自分次第だということです。

人生の最後をイメージし、今の自分を受け入れ

そしてどう生きていくか?

これを決めることは、自分以外には不可能ですが、

それにはまず、わたしが何者か?を受け入れること。

例えば、わたしはピーマンで、どう最期を迎えたいかを考えなければ

何も始まりません。

わたしはピーマンかもしれませんが、

隣の人はキャベツで、その隣はナスかもしれません。

そしてそれぞれ、色も形も大きさも違うものです。

その全てに共通する、

わたしという個性を最大限引き出した

おいしい調理法があるような錯覚をしている人は多いですが

そのような調理法はどこにもなく、

このピーマンにはこのピーマンの

このキャベツにはこのキャベツにあった調理法しかないのです。

ということは、世間の人がいう

「人の幸せは○○するべき」などと言うルールには、

従う必要はなく、

「わたしというピーマンの幸せ」に、

気づかなければいけないわけです。