仏に逢うては仏を殺せ

私(ブッダ)の言葉にすら依存しない

君が川を渡るために筏をつくって、

川を渡った後でこう考えたとしてみよう 。

「この筏はとても役に立ったから捨てずに背負って歩いてゆこう」と 。

そんなお荷物をかかえ込んでしまっては、

重たくて重たくてまともに

歩けはしなくなる 。

それが君の業績であれ

学歴であれ職歴であれ、

この筏と同じ事こと。

私の言葉も教えも真理すらもまた、

この筏のようなものにすぎないのだから、

君が私の教えを使い終わったなら、

惜しむことなく捨て去るように。

中部経典「蛇喩経」

超訳ブッダの言葉、小池龍之介さん著

仏に逢うては仏を殺せ

仏に逢うては仏を殺し、

祖に逢うては祖を殺し、

羅漢に逢うては羅漢を殺し、

父母に逢うては父母を殺し、

親眷に逢うては親眷を殺して、始めて無心を得、

物とかかわらず、すべてが自在なり・・・。

臨済録、示衆の中にある言葉です。

ちなみに、本当に殺せと

言っているのではありません。笑

仏にあったら仏を殺せというのは、

仏の教えや真理に遭うことは、

確かに貴重なことであり、

どれほど果報なことかと感謝するのはいいが、

その思いが強すぎてしまうと、

今度はその仏に依存してしまうことになり、

「これがなければダメだ」と、

心がとらわれてしまった時点で、

例え、それが仏であっても

自由ではなくなる。

だから何事にもとらわれず、

執着から距離を取り「中道」をいくように。

というような意味です。

仏に逢うては仏を殺せと聞くと、

物騒な言葉だと感じますが、

仏の教えを、己の智慧とすることが

できたのであれば、

今度は、その仏の智慧からも離れなければ

「空」とはいえない。

般若心経にある「空性」というのは、

こういうことです。

自由とは

わたしが何処にも依拠しなくて済む状態のことを

仏教では「解脱」や「涅槃」といいます。

また、仏教での自由とは、

「自らを拠り所として、他を拠り所にしない」

という意味で、自らに由るということですが、

どこにも依拠していない自由。

ようするに、欲などに一切とらわれていない、

ということは、

その人は完全に自由であるということです。

「では、死ねばいいのか?」という、

単純なことでは全くありません。

自由でない状態、

いわゆる不自由なまま死を迎えても、

その人というエネルギーは保存され、

残念ながら不自由なままです。

ですから、

生きて自由に向かっていくことであり、

自由になるために対岸に渡る筏が、

智慧ということになります。

文中にある、川を渡る(彼岸)筏とは、

智慧のことですが、

川を渡り、解脱をしたなら、

その智慧(筏)も捨てよ。

と、お釈さまは説かれるわけです。

依存させたい人たち

お釈迦様はそのように説かれましたが、

ブログを書いては依存させ、

メルマガを出しては依存させ、

物を買わせては依存させ、

儲かると誘っては依存させ、

セミナーをやっては依存させ、

協会を作っては依存させ、

そして代わりにお金をいただく。

というような活動にいそしむ人も

たくさんいるようです。

その反対に、古の偉大な賢者は、

「わたしやわたしの教えにも、依存するな」

と説きます。

お金や物をいただくことが

悪いとは全く思いませんし、

またわたし自身、

お布施をさせていただいたりもしますし、

わたしのような者でも、

お話をさせていただくと、

何かをいただくこともありますが、

上記のような活動にいそしんでいる方は、

何を一番の目的にして、

活動をされているのでしょうか?

依存させる必要性

人生とは、自らの足で歩いていくものです。

自らの足で歩いていかない人生とは、

いってみれば「他生」という、

他の人の人生のようなものです。

そして、自らの足で歩くからこそ、

たくさんの人の助けや、情けを感じ、

感謝することができ、

また、自らの足で歩くからこそ、

同じように歩く人の苦労も理解することができ、

共感し、肩を叩き合いながら

歩くこともできるわけです。

ですので、相手の立場に立って考えた場合、

相手を依存させる必要など全くありません。

それに加えて、

人間が生きていくために大事なもの。

例えば、水や、お日様、大地、空気、真理など、

生きていくために欠かせない大事なものって、

すべて無料で、タダであり、

すべてひとりひとりに、

与えてもらっているものなんですよね。

(水は買えるというツッコミが・・笑)