つかず離れず

私たちは不完全な存在です。

体を持って生きている以上、

心の意志という体の欲望を完全に否定することはできません。

でも、その状況に甘んじて、

欲望にドップリ浸かった生き方をするのではなく、

心の意識を感じて判断できるような生き方に

一歩でも近づいていくことが、

この世界に生を受けた私たちの義務であり、

命の進むべき道ではないでしょうか。

死の瞬間に体重が減少する!! 川田薫さん著

欲望の虜はつくられる?

文中にあるように、

「欲望にドップリ浸かった生き方」の人は

世の中にたくさんいるかもしれません。

そして、世の中の情報は、

「欲望にドップリ浸かった生き方」の人たちが

たくさんいるわけですから、

情報を見てもらおうとすると、

そういう人たちが喜びそうな、

情報や発信をするのが通常です。

そうなっていくと、

「欲望にドップリ浸かった生き方」の人たちに

向けた情報の数が多ければ多いほど、

世の中の基準であるかのような錯覚を起こし、

そうでない生き方の人たちも、

だんだんとそのように変化していくことも

あるのではないでしょうか。

人間も動物の一種です

加えてわたしたち人間も、

生き物である以上、

欲望を否定することなどできません。

というより、

欲望の否定など全く意味がないことですが、

だからといって

「欲望にドップリ浸かった生き方」に

全面的にOKを出すような生き方は、

欲望に忠実に生きている動物ならともかく、

人間の生き方として考えた場合、

ちょっともの足りないと思うのです。

欲望があってもとらわれない

欲望はあっていいものです。

むしろ欲望がなくては、

人間は生きていくことはできませんが、

欲望があり過ぎる、

または欲望に支配された生き方では、

これはかえって、苦を創造してしまいます。

ようするに、欲望に支配され、執着し、

欲望にとらわれた生き方とは、

動物が見ることができる景色は見えても、

人間だけが見ることができる景色を、

見ることができないという生き方ですから、

欲望だけを満たそうとする生き方では、

人は幸せにはなれないわけです。

欲道ではなく、中道を行く

欲望は、仮に満たされたとしても、

その満足は一時的なものであり、

すぐにでも、渇いてしまうものです。

欲望が第一という生き方ではなく、

その優先順位が違う生き方。

欲望に執着せず、支配されず、とらわれず、

だけど、欲望も満たしながら生きていく。

そういった中道を歩くことが、

人間だけが見ることが出来る景色を

見ることができる生き方ではないかと、

わたしは思っているのですが、

みなさんはどう思われますか?