何事も度を越えてしまうと・・

さて、ここで、

「私利私欲の心」の根本とは何かを、

あらためて考えてみたい。

それは、すなわち

「計算高さ」というものである。

何事につけても、損得だけで考えて、

得する道しか選ばない。

損は絶対に避けようとする。

ーと、そうした心に満ちてしまうと、

人は「私利私欲」だけしか

見えなくなるのである。

しかし、である。

この世にあっては、

損を覚悟で突き進まねばならない時が、

きっとある。

モノやカネを損しても守らねばならぬ

正義が、誇りが、きっとある。

損得を考えることは、

もちろん人が生きるに大切です。

私は薩摩藩にお仕えしていた若いころには、

藩の財政に携わっていました。

詰まらぬ自慢ではあるが、私は算盤が得意です。

損得を知らねば人は暮らしていけません。

それは、よっく解っている。

ですが、あまりに損得に走りすぎ、

計算高いだけの人間になってしまうと、

結局は私利私欲の邪道に行き着いてしまうのです。

つまり、である。

限度を超えた計算高さといったものが

「節義廉恥」の心を曇らせてしまうのである。

西郷南州翁遺訓 長尾剛さん著

私利私欲、我欲、エゴ

西郷隆盛が考える私利私欲、

すなわち、我欲、エゴのことです。

「嫌なことや、損を絶対に避けようとする。」

人間なら誰しも、

少しはこういう考えを持つものですが、

全てを「損得、損得」と計算し、

私利私欲しか見えなくなっている人も、

世の中にはいるわけです。

人間関係も計算

文中には、

あまりに損得に走りすぎ、

計算高いだけの人間になってしまうと、

結局は私利私欲の邪道に行き着いてしまう。

とありますが、

そうなってしまうと、

当然ながらすべてが損得になり、

人間関係も損得になります。

わたしは、

自分にとって都合のいい付き合い方を、

人間関係に持ち込む人とは、

あまり深い関係ではなく、

ある程度、距離を置きたいと思うのですが、

そういう付き合い方でもいいと思う人も、

いるのでしょうね。

何事も過ぎない

限度を超えた計算高さといったものが

「節義廉恥」の心を曇らせてしまう

と、最後にありますが、

極端と極端を廃した、中道を歩くことが、

肝要ではないかと思います。

計算や打算的な関係の

虜となってしまうのではなく、

計算や打算的な関係があっても、

それだけに縛られてはいない。

という生き方が、

結局、人を自由へと

向かわせてくれるわけですから、

何事も過ぎるほど、

何かに執着してしまうということは、

自ら苦を求めているようなものであるわけです。