おせっかいと親切

病院の玄関で、

車椅子に乗っているわたしを見て、

“かわいそうな人がいるもんだ”

というような顔をして、

とおりすぎる人もいました。

四、五人の子どもたちが、

めずらしそうにまわりをとりかこんで、

ついてきたこともありました。

わたしもけがをするまえは、

あの人たちとおなじように、

車椅子の人を見ていたことを思いだしました。

からだが不自由な人は、

ほんとうにかわいそうなんだろうか・・・。

もし、かわいそうだとすれば、

「かわいそうだ」と、特別な目で見られながら

生活しなければならないことのほうが

“かわいそう”なのではないだろうか・・・。

そんなことを思わずにいられませんでした。

かぎりなくやさしい花々 星野富弘さん著

他人の心と、他人の目線

例えば、車椅子に座っている人は

自分を全くかわいそうだと思っていなくても、

車椅子に座っている人を、

まわりで見ている人たちが、

「自分でそう思っていなくても、お前はかわいそうなんだよ」と、

メッセージを送っている。

というわけですが、

反対にメッセージを送っている人の

気持ちになって考えてみると、

そのような顔をして、見ている人は、

「自分がもし車椅子に乗るようになったら、自分のことをかわいそうだと思える」

から、

同じ気持ちで車椅子に座っている人を見て、

悪気はないのでしょうが、

「かわいそうな人」だと思って、

見るのではないでしょうか。

他人の目線と、わたしの心

その他人の目線に対して、

「かわいそうだ」と、特別な目で見られながら

生活しなければならないことのほうが

かわいそうだと、

星野さんはおっしゃるわけですが、

自分の心で考えていることと、

他人が考えていることは全く違うのだという

例のひとつではないでしょうか。

ボランティア活動に参加し、

参加者の行動を見ていると、

その参加者の目線の先にある意識が、

垣間見えることがあります。

片方の参加者は、自分のやりたいこと、

自分がやってほしいだろうなと思う事を探し、

その活動を一生懸命やります。

片方の参加者は、やってほしいと思う事を

利用者さんやまわりの人などに聞き、

その活動を一生懸命やります。

どちらも、「何か手伝いたい」

という気持ちは同じなのですが、

その行動に至るプロセスは、

片方の人は、相手が目の前にいても

「わたし」を見つめ、

「わたし」と「わたし」で会話を終え、

片方は「相手」を見つめ、

「相手」と会話をするという感じで、

双方の意識が、

まったく逆を見ているわけですが、

これが、おせっかいと親切を分ける、

境界なのではないでしょうか。

他人の心と、わたしの心

わたしは、

「かわいそうか、かわいそうでないか」

も、そうですが、

何事も、からだの状態や環境のような、

表面に現れている情報だけが、

事実を決めているのではなく、

「その人の心が決めている」ということを、

今までたくさん見させていただきましたので、

五体満足だろうが、不満足であろうが、

かわいそうな人はかわいそうであり、

豊かな人は豊かだということを、

おかげさまで、多少は知ることができ、

本当に感謝しておりますが、

まだまだ精進が足りておりませんので、

これからも、おせっかいにならぬよう、

たくさん学ばせていただきたいと、

思っているところです。