幸せは誰が決めるのか

私たちは子供のころから

ひとと自分とを比較することに

慣れているため、

自分が幸せかどうかさえも、

ひとと比べて判断しがちです。

しかし、幸せの尺度は一人ひとり違うもの。

たとえば、他人から見ると

平凡な毎日の繰り返しであっても、

本人にとっては

何より幸せな人生かもしれません。

スヌーピー こんな生き方探してみよう

コミック チャールズ・M・シュルツ 谷川俊太郎さん訳 ほしのゆうこさん著

自主性がない人

文中に、

「自分が幸せかどうかさえも、ひとと比べて判断しがちです。」

とありますが、

他人と比較するものの見方が習慣になってしまうと、

自分という個性がどんどん影に隠れていき、

他人との比較やその評価が、

心の中でどんどん大きくなっていきます。

そのようになってしまうと、

個性という自主性がなくなってしまい、

例えばそのような生き方が極端な人になってくると、

「タロットさんの言うとおり」のような

自分の人生なのに、

自分で決めることが出来ない状態になってしまうわけです。

幸せは誰に決めてもらうのか

タロットがよくないと言っているわけではありません。

そういうことではなく、

自分の人生であるにもかかわらず、

自分以外の何かに決定させ生きていくことに対して、

何の疑問も持っていない状態がマズイということです。

自分の幸せぐらい、

自分で決めてもいいというか、

幸せとは本当は、

自分にしか決めることはできないものです。

個性と自我は違います

個性と自我というワガママは違いますが、

世の中にはエゴを押し通し、己の欲望を叶えることが、

幸せなのだと勘違いしている人もいます。

自己の欲を満たすことが幸せなのだと、

勘違いしている人たちは、

己の欲望を満たすために誰かを犠牲にして、

欲望が満たされたとき、

よかったな、幸せだな、と心から思えたり、

後悔をしないかどうか。

また、他人が自分と同じ手段で、

自分に対して欲望を満たそうと行動してきたとき、

その人を憎んだり、怒ったり、罵ったりすることなく、

心からその人によかったねと共感できるかどうか。

それらを考えてみるといいと思いますが、

みなさんのまわりにいる人や、

みなさん自身はどうでしょうか。

幸せは自分にしかわからない

幸せは、自分にしかわかりません。

ですから、自分で決めていいし、

自分で決めてみませんか?

自分で決めるということは、責任も全て自分ですが、

少なくとも、そうしようと決めた時点で、

「自主性を持って人生を歩こうとしてしている。」

と、いうことですし、

そう考え、行動しようとしたときから、

他人の顔色、世間の評判、こうあるべきというルールなど

小さな束縛からすこしづつ解放され、

少しづつ

「自主性を持ちながら自由に生きていく」方角に、

向かって歩いていくことが、できるようになるわけです。