拝むことは「行」という凄さ

一日、一日、経験を積み、

人間として歳を重ねていくということは、

拝むものをふやしていくことではなかろうかと思うようになった。

拝むものをふやすということは、

拝むことの出来る尊いものをさがしていくということではなく、

むしろ、拝めないものの中に

拝めるものをどれだけ発見していくかという

謙虚さの中にあるのだと気がつかされたのである。

更に不遜な私のような人間のありのままの内容からいえば、

“拝めないものを拝んでいくことによって、はじめて拝めるものの大切さに気づかせていただく”

ことが出来るのだと、

拝むことも行としてうけとめたいと思っている。

一人には一人の光がある 石川洋さん著

垢抜けした馬鹿

この文章の最後で、

「垢抜けした馬鹿になろうよ」

と、石川先生は結んでおられます。

私などは石川先生とは比べものにならないぐらい

不遜な者ですので、

当たり前じゃないことでも、

当たり前だと考えるどころか、

それを通り越して、

当たり前だとも考えることがない、愚か者です。

ですので、当たり前かどうかすら、

普段、考えることすらいたしません。

ですので、

当たり前じゃなかったんだと痛い目にあうことで、

はじめて当たり前のありがたさを知り、

当たり前などなかったということを知るような

どうにもならないヘタレ者です。

拝むことが「行」という生き方

拝むことが「行」という生き方とは、

例えば、泥水を飲まなければならない経験をしたことで、

蛇口をひねると出る、水道のありがたさに

はじめて気づくようなことではないかと思うわけです。

環境や状況が変わると、

わたしの今の当たり前は当たり前ではなく、

実はいろんな人の力によって支えられていたのだ。

ということが理解できます。

そのような経験をして、

はじめて自然に拝めるありがたさに気づくような

愚か者のわたしですから、

まだまだ、水道を拝めることが精一杯で、

拝めないものを拝んでいくという、

泥水を拝む境地にまで、まだ行くこともできません。

拝めないものを拝むとは

「拝めないものを拝んでいくことによって、

はじめて拝めるものの大切さに気づかせていただく」

と文中にありますが、

これは、非常に凄みのある言葉ではないでしょうか。

愚か者のわたしですので、

解釈が間違っているかもしれませんが、

どこが、非常に凄い言葉なのかというと、

到底「拝めるわけがないだろう」というようなものを

拝もうとするだけでも大変なことですが、

それだけではなく、

「拝めるわけがないだろう」というものに対して、

拝むだけではなく、

大切さを気づかせていただくのだ。というくだりです。

このような状況になったおかげで、

「このような状況で拝むことなどできない」と考えるような、

弱く、高慢であり、不遜なわたしが顔を出し、

向き合わせていただくことができた。

そして、心を磨かせていただく機会を与えていただいた。

拝めるものを拝んでも、何の修行にもならないが、

拝めないものを拝もうとすることで、

今まで見えなかった、高慢で不遜な

この程度で取り乱してしまう、弱いわたしを見つけることができ、

謙虚さを磨く機会を与えていただける。

だから、大切に思えるし感謝だということです。

苦を避けよう、楽を求めようと生きていくなら、

まったく必要のない考え方ですが、

心を整え、磨くことを求め生きている求道者には、

必要な考え方であり、

到底、拝めないと思えるような出来事や状況であっても、

心を乱されず、思考を整え、

大切さ、感謝を感じていくという生き方は、

石川先生のような求道者でなければ、

実践できないことだと思うのです。

へりくだったり、自虐的に生きるのではありません

賢者や聖人は、

自分の内部を整えることができていますので、

外がどれだけ大嵐であっても、なんともありません。

ようするに、賢者や聖者にとっては、

状況や環境や出来事などの、外部的な問題ではなく、

その出来事にのみこまれてしまった自分か、

のみこまれなかった自分かという、

自分の心の持ち方が問題なのです。

出来事によって未来が変わるなら、

同じ出来事に遭遇した人たちの未来は、

すべて同じでなければなりませんが、

同じ出来事に遭遇しても、

それそれの「これから」が違ってくるのは、

出来事に対する「受け止め方」がそれぞれ違うからです。

バカさ加減には多少自信があるわたしですが、

石川先生の言われる「垢抜けした馬鹿」にには

まだまだ時間がかかりそうです。

少しづつでも「垢抜けした馬鹿」を目指して、

自由を得ていきたいと思うわけです。