仏となるに、いとやすきみちあり 道元禅師

仏となるに、いとやすきみちあり

もろもろの悪をつくらず

生死に著するこころなく

一切衆生のためにあはれみふかくして

上をうやまひ下をあはれみ

よろずをいとふこころなく

ねがふ心なくて

心におもうことなく

うれふることなき

これを仏となづく

正法眼蔵 道元禅師のお言葉です

現代語訳(超訳)

仏(如来)になるには簡単な道があります。

悪い思考を持ったり、または実際に悪い行動をせず、

長生きしたいという気持ちにとらわれてみたり、

また反対に、死にたくないという恐怖にとらわれたりせず

全ての人はわたしと違う人ではなく、

わたしと同一であるという場所から出てくる、

自然に湧き出る思いやりを持ち、

年上や目上の人を敬って、得難いものを学び

目下の人を慈しみながら、慈悲の心を学び、

どんな嫌な出来事が起きても、厭み嫌ったり

また反対に、良きことを期待して願ったりするように

出来事によって心が左右されてしまうのではなく、

何かに支配されたり、何かにとらわれたりもせず、

また、心に憂いがないのなら、

これを仏(如来)というのです。

難行道と易行道

大乗仏教では、難しい修行のことを難行道、

取り組みやすい修行のことを易行道と言ったりします。

難行道とは陸路を歩くようなもので、

易行道とは水上を船でいくようなものだと

龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は説かれましたが、

道元禅師の示された、この「いとやすきみち」なら

出家までしなくても、在家のまま精進していくことは可能です。

可能ですが・・・

確かに可能ではありますが、これがなかなか難しい。

読んでいるみなさまであれば、いざ知らず

わたしのような凡夫には、なかなか難しいわけです。笑

それに加えて、

これらのひとつひとつを無理矢理にやってみたり、

こうすればできたように見えるか?などと

考えながらやっているのでは、

ただやった。というだけで、修行でも何でもありません。

劣悪な環境に店を出すコンビニ

仏(如来)になるということは

そういった行動がいつも自然体でできるようになることです。

「普段はなんとかできてますけど、余裕がない時にはできませんよ。」

というのは、仏ではありません。

24時間年中無休で、しかもどんな状況かも問わない。

これが仏というものですが

俗世的な言い方をすれば、

24時間、年中無休で、永遠に営業を続けることができ、

しかも、劣悪な環境に店があるけど、

接客は行き届き、店の雰囲気もあたたかかく、

一度入ると、絶対にまた来たくなるコンビニ。みたいなものでしょうか。

例えがよくわからないことは横に置き・・・。

このようなことは、

上辺だけ「やってまーす」みたいなことでは、

まったく歯が立たないことでしょう。

行動が目的ではなく、自然体でできることが目的

智慧を頭で理解するだけではなく、

その理解した智慧を日常の行動で経験し、

真実かどうか?と何度も確かめながら積み重ねていくことが、

本当の智慧になり、わたしの智慧になり、

その結果、自己を磨き成長していく、ということになるわけですが、

成長するということを言いかえてみると、

「反射的、自然にできるようになる」状態を

増やすため歩いていくことだと思うのです。

頭の中だけで知っていた智慧が、考えることなく

反射的に、自然に行動ができるようになれば、

その智慧はわたしの血や肉になった。ということであり、

ようするに修得済みだということであり、

そいいう境地に少しでも己を近づけることができれば

近づけば、近づいただけ、苦から遠ざかっていくことを

実感できるはずですが・・・

先ほども書きましたが、

休みたいときに休み、売り上げはしっかりあって、

しかも経費がかからない場所でしか営業しない、

コンビニのような、わたし(凡夫)ですので、

自戒を込めて書いてみました。

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