愛の先生

わたしはベネズエラで

シスターたちと共にいたときの、

ある日のことが忘れられません。

ある家族が

子どものための家を建てるために

土地を一区画くれたので、

わたしはお礼を言いに行きました。

その家についたとき、

わたしはその家の子どもの一人が、

見たこともないほど重い障害を負っており、

ひどいハンディキャップがあることを

知りました。

その子どもは輝くような喜びに満たされた、

非常に美しい、

黒い、きらきら光るひとみを

持っていました。

わたしは、子どものお母さんにききました。

「この子の名前はなんというのですか。」

すると、お母さんは答えました。

「わたしたちはこの子を愛の先生と呼んでいます。いつもわたしたちに、どうやって愛したらいいかを教えてくれるからです。」

その家族にはすばらしい

喜びの精神がありました。

愛しかたを教えてくれる人がいたからです。

わたしはあなたを忘れない―マザー・テレサのこころ

写真・編訳 片柳弘史s.j.さん

どうやって愛したらいいか

拙者は愚か者ですから、

このご家族と同じ環境であったとしても、

「思い通りにならないことを教えてくれる」とか

「イライラの仕方を教えてくれる」

という先生などと、受け取ってしまいます。

拙者の心の中にあるのは、

「どうやって愛したらいいのか?」

という問いではなく、

「どうすれば、苦から解放されるか?」

「どうすれば、我慢が続けられるか?」

と、いうような問いであり、

見つめることより目をそらすこと、

向き合うことより背を向けること、

という方向に視線を向けてしまいます。

とにかく、拙者、拙者、接写、拙者、拙者、

拙者、拙者、拙者、拙者、と

一部、間違えておりますが・・・、

まわりのことではなく、

己のことが第一、己中心で考えているわけです。

どうやったら愛されるか

また、愚か者の拙者が考えることは、

「どうやって愛したらいいか」ではなく、

「どうやったら愛されるか」です。

相手ではなく、己を中心に考え、

己だけをいつも見ようとし、

また、実際に己だけを見ているわけです。

うーん、ちょっとまてよ?

いつも己を中心に考え、

己だけをみて生きてきたのですから、

さぞかし幸せだったんじゃなーい?と、

賢明なみなさんは感じるかと思いますが

拙者の今までの人生は、

実際はどうだったのでんですかねー?

(遠くを見る)

無知で愚かなわたし

自分中心に生きていた頃、

拙者の人生は喜びの人生ではありませんでした。

というより、喜びとむしろ真逆で、

悲しみや苦やつらい人生、

何かこう、鬱蒼とした、重苦しいー

苦節30年!みたいな、

どっかの演歌のフレーズのような、

人生だったように思います。

自分のことだけを見つめ、

自分のことだけを考え、

自分のためだけに生きているのに、

その反対に、悲しみや苦しみ、

つらい人生であったということは、

今考えると大変興味深く、

面白いものであり、(他人事か)

また「どうしてーえ?」という

理由も今では分かるのですが、

当時の無知で愚かな拙者には、

それを考えることすらできませんでした。

わたしに見える人、見えない人

自分中心でしか、

物事を考えることができない

拙者、拙者、拙者、拙者、拙者、

拙者、拙者、拙者、接写、拙者には、

またまた一部間違っておりますが、

というより、もう

「ウォーリーを探せ」みたいに

なってきましたが、

この人って、まわりのことを考えれる、

愛のある素晴らしい人。

という人がわかりません。

なぜならば、人は誰でも

自分の見たいものしか見えないものですから、

拙者の心にまわりに対する愛がなければ、

その人の姿は見えていたとしても、

その人の心まで見えるはずがないのです。

見えない人と話はできませんので、(チーン)

拙者は拙者に見える人と話をしたり、

関係を築いていくしかありません。

類は友を呼ぶといいますが、

拙者は拙者にちょうどいい人と話をし、

ちょうどいい人と関係を築いていたわけです。

みなさんがもし、

「どうやって愛したらいいのか?」

と、相手のことを考えることができる

人間の教養を持っていたり、

また、それに、

実際に取り組んでいる人だとしたら、

以前の、拙者、拙者、接写、拙者、拙者、

拙者、拙者、拙者、接写、拙者のような、

というより、今度は2つ間違ってますが、

自分中心でしか、

物事を考えることができない人間を、

尊重することはできても、

唯一無二だと思うぐらい、

心の底から好きになることはないでしょう。

まあ、マザーテレサのような、

突き抜けた境地にいらっしゃる方であれば

別ですけど、

凡夫である拙者には、

そこまではまだ難しいものです。

ようするに、愛を与えることができる人には、

愛を与えることができる人が見える。

ということですから、

拙者は、愛にある人に囲まれ、

愛のある人生を望んでいたわけですから、

まずは拙者が、心の中に、

愛を置かねばならなかった。

ということでござるよ。