快楽を追求すると満足になる

満足が贅沢

今では享楽者とか快楽主義者という

誤解された意味でのみ使われている

“エピキュリアン”という言葉だが、

その語源となった

古代ギリシアの哲学者エピキュロスは、

生きていくうえでの快楽を追求した。

そしてたどりついた頂点が、

満足という名の贅沢だった。

その贅沢に必要なものは、

しかし多くはなかった。

すなわち、小さな庭、

そこに植わっている数本のイチジクの木。

少しばかりのチーズ、三人か四人の友達。

これだけで、

彼は充分に贅沢に暮らすことができた。

「漂泊者とその影」

超訳ニーチェの言葉、白鳥春彦さん著

快楽と満足感

快楽と満足感はセットではなく、

むしろ相反するものというイメージがわたしにはあります。

一般的には、

快楽を追求する→達成し満足感を得る→満足感が薄れ、新たな快楽を求める

という快楽のループの奴隷になっているのが

わたしを含めた多くの人ではないかと思いますが、

このように考えてみると、

お腹がすいてしまうように、満足感が減ってくると、

再び満たすために、快楽的な行動をする。ということを、

あまりいい気持ちはしないのですが、

永遠にくりかえすのが人間だと思うのです。

快楽のレベルが上がると・・

ということになると、

「こうすれば満たされる」という対象のレベルが上がれば上がるほど、

それを満たすことが困難になり、

それなりの労力や時間をかける必要性が出てきます。

また、下手をすると

「やってみたが無理だった」ということにもなりかねない可能性を、

含んでしまう危険性も持っているわけです。

確かに人間は、何かに慣れるという特性をもっていますので、

はじめは最高にテンションが上がったことであっても、

回数を繰り返すごとに、だんだんと慣れてきて、

数回後には、あまり満たされなくなったということは

よくある話です。

欲しくて欲しくて買った、新車に対する購入直後の感動と、

初めての車検を迎える頃の感動は、同じ車であっても比較にならないわけです。

足るを知る 知足

「満足が贅沢」という満足を

「感謝」に変えてみたり、「知足」(足るを知る)という言葉に

変えてみるのもいいと思いますが、

逆に考えてみると、

人は満足さえできれば、快楽の支配から自由になれる。

ということではないでしょうか。

どれだけのものがまわりにあふれていても、

「ない、ない」と思うだけで、

逆に心は疲弊し、荒んでいくものですが、

「こんなにある」と考えるだけで、ありがたいと思えるわけです。

「ない、ない」と思っていても、

自由で豊かであればいいのですが、

知足や感謝のない人生だと、

永遠に快楽に支配されてしまうわけですから、

自由で豊かに生きていくことは難しいのではないでしょうか。

わたしは本来無一物

明石家さんまさんが、

「死ぬときにパンツ一つはいていれば勝ちやないか」

と、おっしゃったと聞いていますが、

人間は誰しも、裸で、体一つで生まれてきたわけですから

本来、無一物です。

そこから考えてみると、

もともと執着するものは何もないはずのわたしであるのに、

今ではパンツはおろか、たくさんの物に囲まれていても、

まだ欲しいと考えてしまう、わたしでもあるわけです。

生きていくうえでの快楽を追求した結果、

満足するということが一番の贅沢であったというのは、

面白い追求の道筋だと思いますが、

愚かなわたしであるゆえに、

なかなか手放すことができないものが、煩悩や我欲ですね。