ちょっとした受け止め方の違いが、大きな差になる

青春時代に思い描いた夢と、

成し遂げ得たこととの落差の大きさや、

残された時間の少なさなどを考えて、

落ち込む人も多いと思う。

こうした時間意識の変化を、

逆に人生の一つの挑戦と受け止めて、

積極的に応戦していったらどうだろうか。

たとえば、ここにグラスがあって、

ワインが半分入っているとする。

それを見て、

ああ、もう半分しかない!と

がっかりする人はペシミスト(悲観主義者)。

ああ、まだ半分もある!と

ニッコリする人はオプティミスト(楽観主義者)である。

同じ量のワインでも、人によって、

その受け止め方は全く違ってくるのだ。

中年期を過ぎて、

あれこれに老いの兆しを感じるようになると、

毎日の時間はますます、

無常の速さで飛び立って行くように感じられよう。

しかし、ここでその受け止め方の違いが、

大きな差となって現れてくる。

同じ今日一日なら、

自分の人生はもう半分過ぎてしまった、

取り返しがつかないと、

がっかりしてうつむいてしまう

ペシミストであるよりも、

少なくともまだ、今日一日は

生きる時間を与えられたのだと

感謝しながら、

背筋を伸ばして生きていく

オプティミストでありたいものである。

アルフォンス・デーケンさん著

ユーモアは老いと死の妙薬

同じ量のワイン

目の前に同じ量のワインがあったとしても、

そのワインを見て考えることは人によって違いがあり、

それぞれに、ワインの量に対する受け止め方は全く違ってくるものです。

ワインの量と同じように、

わたしたちはそれぞれ、さまざまな環境で暮らしていますが、

その暮らしに対する受け止め方も人によって違い、

例えば、同じ暮らしであったとしても、

その暮らしについて考えることは人によって違うということです。

喜びも苦もそれぞれ

ということになると、この世にある全ての喜びや苦は、

「○○だから喜び」「○○だから苦」といった明確な基準があるわけではなく、

極端な言い方をすれば、気のせいであり、

勘違いだといっても言い過ぎではないのかもしれません。

「そんなバカなことはない」と思う人もいると思いますが

例えば、

「苦は考え方ひとつだ」と考える習慣を持つ人と、

何かにつけ「苦だ、苦だ」という方向に向かって

考えてしまう習慣がある人では、

どちらの人生が苦を伴侶に生きようとしているか?

どちらの人生が苦を伴侶に選択しているか?

ぐらいはわかるはずです。

環境が創造するのではなく、わたしが創造するという考え方

ワインの話も同じですが、同じ人生であるのなら

苦を自ら創造してしまう人生より、

余計な苦を創造しない人生を選びたいと、

誰もがそう思うのではないでしょうか?

ですがまわりを見渡してみると、

ワインの量は同じであっても、苦を創造する人もいれば、

楽しみを創造している人も、実際にいるわけです。

そして、苦を創造することについては、

多くの人はわりと教えられなくてもできるものです。

なぜなら、生きているだけで、

思い通りにならないことはたくさんあるわけですから、

「今回もどうせまた」というような方向に、

だんだんと思考が傾いてしまうのは、

言ってみれば必然的なことでもあるわけです。

余計な苦を創造しない人生

前述した「思い通りにならないのが人生というものだ」

という考え方を基礎にして考えてみると、

苦の方向に向かわず、苦を創造しない人生には、

ほんの少し教養が必要だという結論に至ります。

それにはまず、人は同じ状況であっても、

苦だと感じる人もいれば、希望や喜びを感じることができる人がいる。

ということを認識しなければなりません。

そしてわたしが、苦だと感じなくてすむ

「状況や環境」の幅を広げていくことができればできるほど、

広く鷹揚に物事を考えることができるようになり、

その結果、わたしの人生や心の穏やかさにつながっていくということを

頭の片隅に置きながら歩いていくことが、必要ではないでしょうか?

仮に、以前と同じような状況になり、再び不満を持ったにしても、

以前よりこの状況に対して少しでもとらわれないようにするには、どう考えればいいか?

ということを、出来事の前後に、

またはその最中にでも、少しづつ考えるような習慣をつけていく。

そのような「味わい」という習慣を積み重ねていくことが

わたしたちが人生に革命を起こすためにできることであり、

またそれが、成熟していくということではないでしょうか。

自らが創造した余計な苦に、つきあわなくて済むようになれば

その時間と労力は、わたしの幸せの創造に使うことができるわけです。