人の悲しみがわかる人間。

私がしてさしあげたことは

必ず立ち直るんだと信じてあげただけのことです。

この子を一番信じなければならないお母さんが

この子がいるので家の中がまっ暗ですとは

お気持ちはわかりますが

子どもさんは誰を信じたらよいのですか。

この子のおかげで

はじめて人の悲しみがわかる人間になれました

よい勉強をさせていただいていますと

どうしていっていただけないのですか。

石川洋さん著 逃げたらあかんからの引用です

この子のせいなのか、わたしのせいなのか

いつの頃からか、他人の物を盗むようになった

まだ幼い娘さんのことを心配したお母さんが、

娘さんと一緒に、石川先生の所へ相談にきたそうです。

石川先生はお母さんと話されたり、

娘さんともいろいろ話をされたそうですが、

その帰り際に、先に子供を玄関から送り出したお母さんが、

石川先生に向かって

「この子がいるので家の中はまっ暗です。でも、この子を産んでよかったと思える日まで頑張ってみます。」

と、言葉をつまらせたそうです。

そのお母さんの言葉を聞かれた石川先生が、

押し付けるような言葉を口にするのは苦手なのですが・・・

と、前置きをされた後、

「どんな期待をもって私のところにお越しくださったのかわかりませんが、私にはこの子を直す力などありません。」

と、声をかけられた後に、語られた言葉が冒頭の言葉です。

わたしなのか、この子なのか

この冒頭に引用した、石川先生の言葉を聞いたお母さんは、

ハッと目を見開き、涙を流されたとあります。

私もいたらないひとりの親であり、

また自分の母親に対しても、よい子ではなかった。

そして、偽りの多い自分の子供の頃を思うと、私はこの子を責められない。

と、石川先生は続けられています。

石川先生の生き方や考え方は、自分のことを省みることを忘れ、

人を責めることばかりしているわたしとは正反対の生き方です。

「私がしてさしあげたことは、必ず立ち直るんだと信じてあげただけのことです。」

と、ありますが、

わたしなど、信じてもらっていても、

なかなか立ち直ることができない愚か者です。

ものが見えないわたし

わたしも親のひとりですが、

親としてはつい、子どもの上から物事を見てしまったり、

考えてしまうものではないでしょうか?

そういう考え方は、必要なことであり、

また大事な事でもあるのですが、

その見方が人として高慢になった見方であったり、

親中心の物事の見方になってしまうと、

その問題の所在まで、わからなくなってしまうと思うのです。

この娘さんのお母さんは、

「この子がいるので家の中はまっ暗です。でも、この子を産んでよかったと思える日まで頑張ってみます。」

と、言葉をつまらせたということですが、

この言葉の中には、娘さんという言葉はなく、

すべてお母さんが主語になってしまっていて、

娘さんの問題から、お母さんの問題にすり替わってしまっているわけです。

愚かなわたし

とはいえ、わたしもものが見えない人間のひとりであり、

親のひとりです。

また、このように機会をいただき、

真実が見えていないわたしであると気づかせていただき、

愚かで、いたらないわたしでは・・と、生きてはみるものの

相変わらず愚かなわたしから、抜け出すことができないものです。

それでも生きていける私、

それでも生かされている私ですが、

このように思うと、ただただ感謝しかなく

ただただ、かたじけないと思うわけであり、

そのかたじけなさという恩を、

子どもや他の人に少しでも送る生き方ができれば

と思うわけです。