死は突然にやってくる

「死は前よりきたらず」と、古人は言った。

気がついた時は、すでにうしろに迫っている、と。

ポンポンと肩を叩かれて振り返ると、

そこに死神の笑顔があるのだ。

この言葉には、妙なリアリティーがある。

私たちは「あと何年生きるだろう」と、予想している。

はるか前方に、死が遠くかすんで見えるような気で生きている。

しかし、足音を立てず、静かに背後に忍び寄ってきているのが

「死」というものである。

他人の死を話題にすることはできても、

人は自分の死を具体的にイメージすることは難しい。

五年先、十年先、二十年先まで、

自分は今のまま生きているつもりで暮らしている。

私もかつてはそうだった。

少年のころは、戦争という大きな制約があった。

当時は日々、戦争で死ぬことを想像しながら暮らしていた。

しかし、戦後の平和の中で、

いつのまにかその実感は失われてしまった。

ときどき過労のはての幻想として死が訪れてくるだけだった。

しかし、よくよく振り返ってみると、死は身近にある現実である。

親しい友人、知人の死が、それを一瞬だけ思い出させてくれる。

六十歳を過ぎたころから、少しずつ自分の死というものが

実感できるようになってきた。

死の練習、といえばおおげさだが、

つとめて自分の死をつよく意識しようと努力してきた成果だろうか。

それによってなにが変わったか。

まず、よく眠れるようになった。

きょう一日、とにかく生きることができて幸せだった、と、

何かに感謝する気持ちが湧いてくるのである。

五木寛之さん著 遊行の門

きょう一日を生きるより

すべての生き物は死に向かって歩く

すべての人間は・・・というより

この世のありとあらゆる命があるものはすべて、

生まれた瞬間から死に向かって歩いていきます。

また形があるものも、全ては消滅へと向かっています。

今在るものを、そのままの状態で永遠に維持する。

それを確約することなど、誰にもできません。

ようするにこの世のものは、

すべて消えゆく運命にあるということです。

存在するだけで価値がある

すべては死に向かっているわけですから、

放っておけば、生物はやがて死んでしまいます。

また、同じようようにどのような物であっても、

放っておけば、やがては劣化していくものです。

ようするに、この世の全ての生物は、

生きるために努力をしなければならないものであり

また、物も劣化、消滅しないために

努力を続けていかなければならないものであるわけです。

そのように考えてみると、人は生きているだけで価値があり、

存在しているだけで価値があります。

それに加えて、人はそれぞれ違っていて

それぞれがこの世で唯一なのですから、大変に貴重な存在であるわけです。

わたしを貴重だと思えない

貴重な存在なのですが、自分には価値がないと自分を責めたり、

こんな自分でも相手にしてくれるのだからと

自分のことを安く見積もってしまい、

相手の思うような人間になろうとする人もいます。

相手の思う人間像が、自分の心に沿っているならまだしも

自分の心に反しているのであれば、

そうしようと決めたときから、

我慢する道を歩き始めてしまいます。

そうなってしまうということは、もう幸せじゃないわけですが

そもそも、自分には価値がないと自分を責めた時点で

幸せでない道は、はじまっているわけです。

犯人は誰なのか?

幸せでない場所へ、自分を追い込んでいるのは

一体誰なのでしょうか?

みなさんに罵声を浴びせた人でしょうか?

それとも、わたし自身なのでしょうか?

確かに、誰かに言われた、心ない言葉は事実なのでしょう。

そして、時々その言葉を思い出し、自分を責め、

自分を苦しめてしまうのでしょう。

ですがその言葉は、過ぎ去った言葉であり、

もう過去の言葉なのではないでしょうか?

そして、わたしにいつも寄り添い、

わたしと共に常に人生を歩いていくのは、

罵声を浴びせた人ではなく、

誰でもないわたしなのではないでしょうか?

というより、人はみな

ひとりで生きていくものです。

寂しさを埋めてくれるのは、他人ではなくわたしです

であるなら、罵声を浴びせた人の言葉などに

支配され、コントロールされてはいけません。

その言葉の呪縛から、

すぐにでも自分を解放しなければなりません。

わたしの人生をずっと共に歩くのは

他の誰でもない私自身です。

であるなら、わたしがわたしを信じなくて、

誰を信じて生きていくというのでしょう。

そして、その呪縛を解き放つことができるのも

この世に自分しかいないわけです。

わたしを愛することが、他を愛することになる

他人で寂しさを埋めようとせず

自分には生きる価値があるという思考習慣に変え、

自分を大切に生きることができるようになってくると、

常に心の中に、自分を大切だと思っている

ひとりの自分がいるわけですから

もう二度と、上辺や言葉だけで寂しさを埋めようとしたり、

自分の寂しさを埋めるため、

自分の心に反して相手の思うようになる自分になって、

寂しさを埋めるための取引をすることもなくなってきます。

自分が自分を大切にできるようになれば

心は少しづつ満たされていきます。

そうなれば、心にゆとりができてきますので

相手も大切にしようという気持ちが芽生えてくるし、

わたしがわたしを大切にするということが

どんなことかがわかるようになったわけですから、

相手が本当にわたしを大切にしてくれているか

上辺だけの演技かなどもわかるようになってきます。

色々書きましたが・・・

放っておけば死んでしまうわたしたちが

今、生きているということは、それだけで価値があることですし

それだけですごいことです。

偉そうなことを並べたり、罵声を浴びせている人も

そしてわたしも、

全員もれなく、最後は死んでいくわけです。

そして、その真理は誰にも変えることができないわけですから

過去に支配されず、

わたし生きているな、価値があるってことだよな、すごいことだよな

で、いいのではないでしょうか。