金子みすゞさん 蓮と鶏

泥のなかから蓮が咲く

それをするのは蓮じゃな

卵のなかから鶏がでる

それをするのは鶏じゃない

それに私は気がついた

それも私のせいじゃない

金子みすゞさんの詩

蓮(はす)と鶏(にわとり)です

わたしたちは生まれただけで尊い存在

わたしたちは両親の因と縁によって

この世に生まれてきました。

そしてわたしたちの両親にも、

わたしたちから見ると、いわゆるおじいちゃん、おばあちゃんですが

それぞれ父親と母親がいます。

そしてまた、そのおじいちゃん、おばあちゃんにも両親がいて・・・

などと、考えていくと、10代遡っただけで、

なんと、2046人ものご先祖がいるわけです。

例えば、養子の場合はもっと多くなったり、

いとこ同士で結婚した場合だともっと少なくなったりしますが

単純に計算すると、10代で2046人にもなるわけです。

多くのご先祖が命をつないでくれたおかげで

今ここに、わたしたちは生まれてくることができましたが

先ほどの例で考えてみると、

その2046人の祖先の中の、誰か一人でも違う人だったら

今のわたしは、確実にこの世に生まれていないわけです。

脈々とつないできてくれたから、今のわたしはここにいて

誰か一人でも違う人であれば、わたしはここにはいない。

そのように考えてみると、今ここにいるわたしは

奇跡の確率で生まれてきたということです。

存在より結果によって判断されてしまう

そのようなわたしだと考えてみると

わたしを粗末に考えず、大切にしなければと思えるものですが

その反面、それぐらいでは、わたしを大切に思えないという人も

いるのではないでしょうか。

その理由のひとつが、

成果や結果を上げた人が優秀で素晴らしいと評価をする、

成果主義的な判断で人の価値を決める社会だと思うのです。

全ての人は、多くのご先祖が命をつないだ結果

この世に生まれてくることができたわけですから

それだけで人は尊く、奇跡の存在であるわけです。

その奇跡の存在であるという事実に全く目を向けず

このテストをしたら、優秀だったとかダメだったとか、

この仕事をしたら立派だとか、ダメだとか

その場やその時によって

自分の存在まで下げたり上げたりするような

考え方「だけ」にとらわれると

対比の世界から抜け出せなくなり

優劣や損得を通して自分を見ることで

自分の存在を大切にできなくなってしまったり

わたしが大切にできないゆえに

全ての命もわたしと同じく尊いのだということが

わからなくなってしまいます

わたしたちは縁と因によって生まれた

この世のもの全ては、因と縁によって存在しているわけですが

それを言いかえると、

「因と縁によって、たまたま偶然に存在しただけである」

ともいえるのではないでしょうか?

わたしたちという存在は確かにありますが

同じ時、同じ場所、同じ条件というものは

二度と揃うことはないわけですから

わたしという全く同じ人間が生まれてくることはありません。

ということは、

わたしたちという存在は「唯一無二」であり「奇跡の存在」であり

逆に言えば「確信的な存在ではない」ともいえるわけです。

そして全ての出来事は二度と戻ってくることがなく

一切が過ぎ去っていきます。

わたしという確信的な存在はなく、全ては過ぎ去っていく世界

それが私たちが住んでいる世界です。

わたしもあの人も全てが尊い

そうであるにもかかわらず、我が身の可愛さで

わたしという存在だけに固執したり、

また、わたしに起きる出来事に一喜一憂してしまうのが

わたしたち人間でもあります。

確信的ではなく、唯一無二の存在として

因と縁によって生まれたということは

わたしたちは生かされているということですが

わたしたちはわたしを確信的な存在だと思い

人生をわたしの力「だけ」で生きていくと勘違いをしてみたり

まだきていない未来を不安に思ったり

過ぎ去った昨日をいつまでも悔やみながら

日々を生きているのかもしれません。

日常の何気ないことが、何気ないことではなかったと気づいても

「それも私のせいじゃない」と言える、金子みすゞさんとは違い

わたしは気がついたのだと考えてしまう、高慢なわたしは

まだまだ感謝の生き方が身についておらず、智慧を知りません。

わたしもあの人も同じように尊い存在であるのに

わたし、わたしと考えていると

わたしとあの人をどうしても分けてしまいます。

ようするに、今在ること、今日起きていることが

わたしの力ゆえであると勘違いをしてしまうような

感謝を知らないわたしです。

同じ競争であっても・・・

自分を大切にする智慧を学び、尊い心を育てることができれば

競争社会の中で比べられても

わたしを尊重することができ

揺らぐことのない自分でいれるのではないでしょうか?

そしてそれがやがて、

相手を尊重することにもつながっていくと思うのです。

自己否定を土台にした競争は

落とし合いであり、傷つけあいでしかありませんが

わたしを尊重することができる人の競争は

磨き合い、尊敬しあうものです。

そのように考えてみると

人生とは外側の問題ではなく、わたしという内側の問題だと思うわけです。

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