聖なる愛と己の闇

人間は、自分の心の醜さに

目を閉じて自分をごまかしている間は、

永遠の真理を理解することはできません。

人間の心の中を

洗いざらい明るみに出してみれば、

過去幾生涯の間に無数の迷いによって

ゆがめられた醜さが、

正視に耐えないほど充満しています。

この心中の敵との戦いに比べれば、

戦場の戦さなどは物の数ではありません。

心中の敵は、力づくで絶滅できるような

生やさしい相手ではありません。

この「無知な欲望」という敵は、

至るところに潜んでいて、

巧妙な策略と恐るべき有毒兵器を隠し持ち、

眠っている間でも、

たえずわれわれを殺そうとねらっているのです。

しかし、このような敵に頭から屈して、

自分の理想を貫こうともせず、

ただ運命の成り行きに身をまかせている人間は、

でく人形にも等しい無知無能ないくじなし

といわなければなりません

「師よ、しかしあなたは、無知のやみの中で迷っている一般の大衆に、同情の気持をお持ちにはならないのですか?」

哲人はしばらく沈黙していたが、

やがて遠まわしに答えた。

あらゆる価値の源泉である霊なる神と、

明らかに何の価値をもそなえていない

肉体としての人間をともに愛することは、

しばしば困難をともなう作業です。

しかし、これもよく考えれば

解決しうることです。

心の動きを深く掘りさげて研究していくと、

やがて人間の心の共通性、

つまりだれもが似かよった利己的動機に

動かされているということがわかってきます。

すなわち、今までの他人が

少しずつ兄弟のように感じられてきます。

こうして、人間はみな同類なのだと気が付くと、

しだいに謙譲の心が湧いてきます。

そして、この気持が成熟すると、

自分の内にある魂の無限の力を忘れている

無知な同胞たちに対する同情となるのです

「確かに、いつの世の聖者たちも、世の悲しみに対してみなそのように感じてきました」

物事のうわべしか見ない浅薄な人間は、

狭い自我の殻の中に閉じこもって、

他人の苦悩に対して感受性を持つことができません

行者のきびしかった表情は、目に見えて和らいできた。

しかし、メスで鋭く自己を解剖する者は、

同情が他のいっさいのものに

拡大していくのを経験します。

するとその人は、

しだいに頑冥な自我の衝動から

解放されるようになります。

聖なる愛は、そのような土壌に花を開くのです。

人間はみな、いつかは自分のつくり主に

心をむけるようになります。

その動機は、ほとんどが

「苦しいときの神頼み」といったたぐいでしょう。

苦痛という不名誉なむちによって、

人間は神の前に駆り立てられて行きます。

しかしほんとうは、

神はその素晴らしい魅力だけでも、

人を引き付けるのに十分なのですが。

哲人と私が立っていたそこは、

壮麗さで知られたカルカッタのカリガート寺院で、

私はその日、見物がてら参詣に来たのだった。

二人は静かに歩きはじめたが、

この行きずりの友は、

あたりの華麗な建物には目もくれぬようすだった。

「れんがも壁も、われわれに無言の調べを奏でてくれています。万物は、人間の魂の賛歌に応えてその心を開くのです」

あるヨギの自叙伝 パラマハンサ・ヨガナンダ著

愛に至る道とは

「引用が長いなー、おい」

と、思われた方もいると思いますが、

今日はつい、横着をしました・・。

と、いうわけではありません。(ウソ)

ここでいう聖なる愛や、

仏教でいうところの慈悲というものは、

このようなプロセスで育まれていくものです。

聖なる愛とか慈悲などと聞くと、

少し敷居が高いなーと感じてしまいますが、

そのようなことは全くありません。

ただ、己と向き合えばいい。

ということであり、

しかも、長所と向き合うのではなく、

闇や醜さなどと向き合うだけでいいので、

敷居は低く、お手軽です。

善や長所と同じように、

闇や醜さは全ての人間が持っています。

ということは全員が、

「聖なる愛や慈悲を手にすることができる」

ということになるわけですねー。

高慢で慢心しているこのわたし

己の闇や醜さに触れ、

それを認識することができてくると、

普段から肩身が狭く、

小さくなっている拙者に負けず劣らず、

己の中の高慢さが小さくなっていくものです。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

という言葉がありますが、

実ってもいないのに、

無理やり頭を下げるということは、

自然に頭が下がったわけではなく、

「このほうがよかろう」と何か考え、

頭を下げたということですが、

自然と頭を下げる生き方をするには、

まずは、己の愚かさに気づくことだと

思いませんか?

己がまだ高慢だということは、

「わたしは完璧だが、お前はダメなやつだ」

と思えるぐらいの、

高慢さを野放しにできる程度の、

闇との向き合い方だということです。

感謝のとびら

「お互い不完全だから、人間やってんだよねー」

と、考えることができると、

だんだんと、

「俺って、生かされてるわー」という気持ちが

少しづつ芽生えてきます。

「俺様だぞ、エライだろー」と、

高慢の道を歩いていたのに、

実はいろんな人たちの

目に見える支えや応援だけでなく、

目には見えない幾多の影響があり、

「俺様だぞ、エライだろー」と、言えていた?

実は自分の力だと思って威張ってきたけど、

そうじゃなかった?と気づいていくと

「あーん、愚か者!」と思え、

感謝がだんだんと大きくなってきます。

そのうえで他人を見る

「自分も助けられているが、みんなそうだろう」

「己には闇があるが、あの人もそうだ」

と思えてくると、感謝が大きくなるものです。

例えば、何か事件が起きるたびに、

「好き勝手に批判する」ことができるのは、

「俺は失敗は絶対にしない」と、

自分のことが見えている、

少し視力検査が必要な人であり、

「俺は今まで、失敗などしたことがない」

と、勘違いをしている、痛い人だということです。

拙者は「失敗サイコー!」などと、

言っているわけではありませんが、

拙者だって、あなただって人間です。

例えば、拙者を不快にさせるようなことが

連続して起こり、(おー、こわっ)

心が乱され、冷静さを失ったとしたら、

「常に冷静で、人に迷惑はかけません」

と、言い切れませんねー。

ま、こういうことが頭の片隅にある人なら、

少なくとも、言いたい放題批判するなど、

できないんじゃないの?と思うわけです。

闇に向き合うと愛

もし、高慢な人が「俺も、あなたも人間」

という思考を使うと、

「俺はできるけど、君はできないの?」

という言葉が出てきますが、

己の闇を知ることによって、人間の闇を知った人が

「俺も、あなたも人間」という思考を使うと、

「だから、お互い頑張っていこうや」という、

励ましあう言葉になると思いませんか?

だいたいの人は闇を嫌って、

闇から目を背けようとしますが、

闇も光も、己の一部ですから、

力を半分しか使えないことになり、

全てのパワーを発揮することはできません。

闇の力も光の力も、実はつながっていて、

二つの力は互いに影響しあうものです。

ようするに、己の闇に向き合うと、

自然体の愛や慈悲に気づくことができ、

闇も光も全てがサイコー!ということに、

さらに気づくことができるわけです。