人がいる場所は3種類 智慧の大地の思考

智慧の大地にいる人の対応はわかれます

人からだまされたり、

ひどく傷つけられた場合にどうするか?

に対する、前回の記事の続きです。

前回は、人からだまされたうえに、

ひどく傷つけられた場合の

対比・欲望の大地に住む人の場合と、

大きな川を渡る人の場合の説明でしたが

今回は、智慧の大地にいる人の説明です。

智慧の大地にいる人の対応を、

今回は大雑把に、

3段階に分けてみようと思います。

○一段階目(自責の思考)

まず一段階目は自責の思考です。

自責の思考とは、結果に対する原因を

他人や環境などの責任にしない考え方です。

結果に対する原因を

他人や環境などの責任にしない。

と、考えてみると、

なんだか自虐的な思考に思えてしまいますが、

まったくそうではありません。

他の責任にせず、自分の責任にする目的は、

すなわち精神的な成長のためです。

自分の責任にしなければ、

原因は全て他にあるわけですから、

反省の必要はありません。

反省の必要がないということは、

当然成長もしないわけです。

そのような生き方をしていては、

いつまでも同じような問題が目の前に現れ

同じような問題でつまずき、

解決方法を他の責任にするという繰り返しです。

智慧の大地にいる人は智慧の一端を知り、

智慧をさらに知ろうと求道している人ですから、

たとえ失敗をしたとしても、

それを学びに変えることができる人ですので、

わたしが成長していくために、例えば

「あの状況で、わたしにできることはなかったか?」

と、考えることができる人なのです。

では

「人からだまされたうえに、ひどく傷つけられた場合」に

どのように考えていくのか?ということですが

「そのような人だと分からなかった、人を見る目がない己の責任である。」

と、考えます。

私の人を見る目が足りなかったということは、

私が未熟であるということです。

類は友を呼ぶと言いますが、

そのような人でもいいと思って

親しく付き合っていた私が、

そもそも本物ではなかったのだ。

そしてだまされたうえに、

傷つけられたことによって、

未熟な自分であったと気づくことができた、

自分と向き合ういい機会を与えてもらえた。

と、考えます。

○二段階目(求道的な思考)

求道者とは文字通り、

道を求める人ということです。

先ほどの自責の人より、

さらにストイックな生き方をする人ですが

そのような生き方をしている人は、

この場合をどのように考えるのかというと

そもそも人生は私が主体のものである。

であるから、

私が清らかな方向へ歩いていているなら、

相手の行動など問題ではない。

と考えます。

どういうことかというと、

わたしが誠実に

その人と向き合っていたのであれば、

相手がどのような行為を私にしたとしても

私には関係ないことであり

わたしの人格や

わたしが今まで積み重ねてきたものを、

何一つ傷つけるものではない。

と、考えるということです。

相手の「だまし、ひどく傷つけた」

という相手の積み重ねた行為は、

そのまま、

相手の身の上に積み重なる業であり、

相手サイドの業の問題であり、

わたしには関係ないものです。

相手の行為を多くの人が

「私には関係ない」と思えないのは、

だまされた→傷つけられた→悲しい。

といったように、

出来事と感情が結びついてしまい、

わたしと関係があると思ってしまうわけですが、

求道者は、己の精進という道を歩く者ですので

問題は、私が何を積み重ねたか?であり、

相手が何を積み重ねたか?ではありません。

例えばプロのアスリートの場合、

相手の結果によって

一喜一憂しても仕方がありません。

というより、いつも相手の結果次第で、

自分が左右されてしまう人を、

プロとは呼びません。

求道者とは、すなわちプロということです。

例えば、相手が違反をしたことについては、

何かしらで、相手に返ることです。

プロが問題とするところは、

わたしがこの競技とどう向き合うか?であり

わたしがどれだけの努力を今までしてきたか?

ということです。

話を戻すと、

本当の正しさに向かって歩き続けているのなら、

わたしはいつかはそこへ到達するのであり、

相手の行動によって、わたしの到着が遅れたり、

早くなったりすることはありません。

だまし、ひどく傷つけた相手の行為で、

わたしが積み重ねたものが

変化するわけでは全くないのですから、

騒いだり、報いを受けるのは相手であり、

わたしは穏やかにしておればいいわけです。

求道者のような智慧を持てば、

だまされ傷つけられ感情が湧きあがったとしても、

一時的な感情で済ませることができ、

その感情にいつまでも

とらわれたりすることがなくなってきます。

ようするに、

誰かが不幸になろうと、幸せになろうと、

わたしの幸せは、

わたしが積み重ねていくものであり、

わたしの幸せは相手と比べるものではない。

と、考えることができるということは

本当の幸せを

きちんと知っているということであり

本当に自分を大切にしながら、

自分の人生も大切に生きている人だ。

ということが

その考え方から見えてくるわけです。

○三段階目(慈悲の思考)

最後は慈悲の思考です。

心から相手を思いやる慈悲と、

表面的・一時的な思いやりとは

同じ思いやりでもスケールが全く違います。

表面的・一時的な思いやりは、

条件や環境さえ揃えば、特に精進も必要とせず、

わりと簡単にできてしまうものですが

心からの慈悲は、自分が厳しい状況であっても

思いやることができるということであり

ようするに、環境や状況に関係なく、

思いやることができる心を、

持っているということです。

そのように考えると、

慈悲とは求道の先にあるものであり

精進した先で手にすることが

できるものであるわけですが

その慈悲心をもって

「だまされたうえに、傷つけられた」

という状況に遭遇した場合、

どのような事実に見えてくるものでしょうか?

だました人も、

対比の大地にひとりぼっちで

競争の中を生きていくより、

誰かと共に生きて生きたいと思っているはず。

だけど、そう生きる智慧を知らないから、

競争の中に身を置く生き方をするしかなく、

心をすり減らしながら

生きていくことしかできない。

それゆえに、自分の利を追求したり、

競争に勝つために、他人をだましたり傷つけたり

という行動をとらなければならない状態であり

そうしなければ、

心のバランスを取れない状態なのだから、

本当は、その人も相当つらいはずである。

と、考えます。

ようするに、

相手の行為を見下したりせず、同じ目線で見れる。

ということです。

凡夫であるわたしたちは、

対比の大地から出たいと願い、

歩いた経験があると、

わたしも以前はそうだったな。

と、心から共感することができ、

「罪を憎んで人を憎まず」

という言葉にあるように、

この問題はその人の性格や能力の問題ではなく、

本当の幸せとは?という

智慧を知らないだけだと、

心から思うことができます。

ようするに、

人をだまし、傷つけたからといって、その人まで貶めない。

ということです。

そして、それで終わりではなく

その智慧をこの人に伝えるには

どうしたらいいだろう。

どういう言葉と態度で向き合えば、

受け止めてくれるだろうか。

と、心から相手のことを考えることができる。

ようするに、

どうすれば智慧を手渡し、その人が幸せになる手伝いができるか。

ということですが、

これら一連の思考を、

自然に考えることができる人を、

慈悲の人といいます。

少しまとめてみます

はじめに書いたように、

この智慧の大地にいる人については、

他にもまだあるのですが

今回は自責、求道、慈悲と、

ざっくり3種類にわけてみました。

ざっくりとですが、このように

智慧の大地にいる人の行動や

思考を分析してみると、

人の意見や評価ではなく、

自分の生き方を基準に思考している

ということが見えてきます。

自分の生き方を基準に思考できるということは、

きちんと智慧を知っているということであり、

自分が正しい方向に向いているということを

認識しているからです。

ようするに、智慧を知っていれば、

自由に主体的に生きることができる。

ということになりますが

例えば日常で、

○人の意見や評価が気になったり、

○誰かの行動に影響され感情が乱されたり、行動が変化してしまう

ということがある場合、

まだ、主体的に生きることができていない。

という、ひとつの確認に、

なるのではないでしょうか。

なぜ主体的に生きれないのか?

それは、先ほども書きましたが

自分の中に本当の幸せとは?という

問いの答えをもっていないからです。

真実という智慧は、時代や文化、

人種や状況を越え、全ての人間に共通するものです。

にもかかわらず、

人の評価を気にして胸を張れなかったり

環境や他人影響を受け、

右往左往してしまうということは

真実が、まだはっきりと認識できていない。

ということになります。

最後に

いろいろと見てきましたが、

対比・欲望の大地にいる人が持つ

「興味」という矢印は、常に自分に向いていて

川を渡る人の興味の対象は、

自分から相手に変化してみたり、

また相手から自分に矢印が変化するなど、

対比の大地にいる人のように、

自分だけという小さい世界観から

抜け出していきます。

そして、智慧の大地にいる人の

興味の矢印は相手です。

智慧の大地にいる人とは、言い方を変えると、

自分のことは自分で整えることができる人。

ということですから、

智慧の大地に近づけば近づくほど、

相手に意識がだんだんと移っていくわけです。

ようするに、幸せな人生を構築したいなら、

自分と自分の人生を無条件に認め、

大切にするために智慧を知り、

智慧の思考を習慣化することです。

智慧の大地の思考をもった自分より、

自分中心のわたしが好きという人は

誰一人いないと思いますが、

ということは、智慧に近づけば近づくほど、

いやでも自分を好きになってしまう。

ということになるわけです。

ただ、できるできないの問題はのこります。

「話はわかったけど、自分には無理だよ」

という気持ちも、当然にあると思いますが、

はじめからできないと考えてしまうのではなく

「こういう場合、智慧の大地ではどう考えるのか?」

という問いを、わからないなりにも、

自分に問いかけていくことで

だんだんと智慧の思考が習慣化し、

技術も上達していきます。

その場所に行くには、近道はありませんが

逆に言えば、

正しい方向に向かい歩いていくだけで、

誰にでも到達できるものなのです。

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