よしあしの文字をもしらぬひとはみな・・・その2

よしあしの文字をもしらぬひとはみな

という、前回の続きです。

わたしの中にあるフィルター

私たちの資質、思考の癖を言いかえれば

「私のはからい」となります。

私たちは私のはからいという

フィルターを通して

聞き、見て、判断し、行動している

生き物なのです。

ですから、同じ本を読んでも、

「ふうんそうなんだ」「これはすごい」などど

それぞれが、

私のはからいを通して読むので、

同じ内容の本を読んでも

全く同じ感想を持つということはないわけです。

ということは、

そこに前述した疑問の答えが

あるのではないでしょうか?

私たちは判断をするとき、

自分に都合のいいモノの見方で

判断していないでしょうか?

例えば教科書を読んで勉強をしていても

「○○ぐらい知っている」

「○○についての知識は大丈夫」などと

考えてしまうことが、

私たちにはあるはずです。

それはようするに、

幸せでないから幸せになる勉強をしようと思い、

私より幸せな人に師事したのに、

私より幸せな人が教えてくれていることが、

全てが、そうなんだとは思えなかったり、

全て受け入れることができず、

内容の都合よく聞き、聞きたくない所は避け

都合のいい部分だけ学ぶ私が顔を出すわけです。

その結果、幸せになれたならいいのですが

惨めな私が、都合よく学んでいるわけですから

いくら学んでも幸せになれるはずがないのです。

都合よく決めてしまう?

このように考えると、

善悪の判断についても同じことが言えます。

「私のはからい」という、

自分の都合を手放せない人が、

善悪という道具を持つと、

「私のはからい」で善・悪と、

都合よく決めているだけなのですから、

その判断は自分も人も傷つける凶器になります。

人は「私のはからい」を通して判断し、

行動しているものだという事実を知っていれば

善悪の判断を気軽に振り回したりしないし

自分の都合の善悪を強要してくる人に対しても

真実を知らないからだと、

少しは暖かく見守ることができるわけです。

はじめに、よい、よくないというモノサシで

何事も判断する生き方をしていない人は

誠実な心を持った人であるという、

親鸞聖人の和讃を紹介しましたが

何の根拠もない、

私だけの都合を使って判断しながら、

生きている私だと自覚できるからこそ

「私だけの都合」を、善だと強要すれば

相手を傷つけるだけだという、

怖さを知ることができるわけであり

また自分の成長にもたらす

損失にも気づいている人なのです。

自己流の善悪

善悪を知っているという人ほど、

大きく間違った人だと和讃は続きます。

善悪を知っていると胸を張れるということは

自分はこんなに知っているのだという

高慢な気持ちの現れではないでしょうか?

ようするに、幸せに近づく学びではなく

私の都合というフィルターを、

増やす学びになっているわけです。

そして高慢な人を観察してみると

幸は薄そうに見え、常に怒りを抱え、

人と競ったり、試したり、見下したりと

いつも批判ばかりしているものです。

ということは、私が幸せに近づくためには

そういう人の言葉などは

そもそも聞いても幸せにはなれませんから、

自分を守るため、幸せになるために

自信をもって受け取らなければいいわけです。

学んでいく人は、どこにいても学び

成長する人は、どこにいても成長します。

知識や経験の内容も大事なことですが、

私のはからいをできるだけ通さず、

そのままをいったん受け取る心の器や素直さが、

私を豊かにしてくれるポイントのひとつであるわけです。