よしあしの文字をもしらぬひとはみな 

よしあしの文字をもしらぬひとはみな

まことのこころなりけるを

善悪の字しりがおは

おおそらごとのかたちなり

親鸞聖人 正像末和讃

わたし流に超訳してみます

浄土真宗の宗祖である親鸞聖人がよんだ和讃です。

よい、よくないなどという自己流のモノサシで、

何事も判断するような生き方をしていない人は、

誠実な心を持った人であるが

わたしこそ善悪をよく知っている者だという

顔をしている人ほど、

嘘の人であり、

大きく間違っている人だという意味です。

知らないことはわからない

私たちは日々、いろんなことを判断しています。

そして判断と共に、よい・よくないという

ジャッジもしているわけです。

ですが、出来事を判断するには

何か基準が必要ですね。

何か基準がなければ、

いつも支離滅裂な判断をするしかないわけです。

私たちは今までの経験や得た知識により

積み重ねてきた基準に拠って

常に判断をしながら生きています。

ですがその判断は、うまくいくこと、

いかないことに分かれてしまうものです。

それはどうしてかというと、

経験や基準はそれぞれ違うものであり

またその経験や得た知識を活かすための

出来事や相手もまた、毎回違うからです。

仮に状況が同じでも、

相手が違えば判断も変わります。

だからうまくいったり

いかなかったりするわけです。

ですが私たちは、

いつもうまくいく判断をしたいと

願うものです。

ではどうすれば、

いい判断ができるようになるのか。

それは、知識を学び、経験を積むことで

だんだんと上手に

なっていくものではないでしょうか。

知っていてもわからない

ですがそのように考えてみると

お金と時間を使って

いろんなセミナーに通っても、

全く幸せになれないという人や

また同じセミナーを聞いても

人によって変化が別れるという事実や、

年を重ね若い時より経験も豊富なのに、

自らをコントロールすることができず

自分も人も傷つける生き方をしている人が

世の中にはたくさんいるということに対して、

明確な答えを示すことができません。

このような疑問を前にすると

どうやら知識をただ増やし、

ただ経験を積めばいいという

単純なことではなさそうだ。

と気づくことができます。

私たちはそれぞれ、

持っている経験と知識が違うと前述しました。

では仮に全く同じ経験と知識に触れた2人が、

全く同じ判断をするようになるのでしょうか?

それは、その人の性格によって違ってきます。

例えば、同じものを見る大雑把なAさんと

神経質なBさんでは、

そもそも、見ようとしているものが違うので、

見えるものが違ってくるわけです。

このように検討してみると

どうやら知識や経験という、

外部の条件だけが変化を決めるのではなく

知識や経験をどう受け止めるか。

という自分自身によっても、

その後の対応や考え方が違うわけですから、

善悪をよく知っていると思っているのは、

実は自分だけだった。

ということになるわけです。